私の歩んだ道 その5 イラク・中東諸国訪問
◆超党派の中東調査
超党派でおこなわれる国会の海外派遣調査で大変印象的だったのは、2001年8月に実施された予算委員会のイラクやサウジアラビア、イランなどを訪問した中東調査でした。
その調査の翌月の9月11日、アメリカで無差別テロが発生し、国際緊張が一気に高まることになります。その直前の中東訪問でした。
国会では、各委員会がその目的を達成するため、適宜、海外に委員派遣を行っています。以前は、物見遊山(ものみゆさん)まがいの「調査」があって国費の無駄遣いと言われることがありました。私は、そのようなことのないよう、あらかじめ予算委員会の理事会で発言しました。
───「目的を明確にすること、機密費が大きな問題になっており国民から疑惑をもたれることのないようにすること」。……この主張は全体の合意を得ました。
日程は、8月12日から26日までの2週間で、訪問する国は、中継地も入れるとフランス、ヨルダン、イラク、サウジアラビア、アラブ首長国連邦、イラン、トルコの7カ国です。
中東への超党派の委員会派遣は、これがはじめてとのことでした。
行く前に、アメリカから圧力がありました。出発前に、アメリカ大使館を通じて「なぜイラクへ行くのか」「なぜ3日間も滞在するのか」という問い合わせがあったということです。アメリカは、その当時でもすでにイラクにたいして爆撃をおこなうなど、緊張下にありました。
◆アメリカの劣化ウラン弾で、子どもたちが犠牲に
イラクのバグダッドで訪問したサッダーム中央小児病院は、私にとって大きな衝撃でした。
院長は、次のように言いました。
――「子どもの伝染病の研究と治療をおこなっている。経済制裁の影響で、ストックしていたクスリが底をついた。電気関係が破壊された。輸入が遅れている。ともかく必要とするものがない。ボールペンさえも足りない。制裁前は、子どもの死亡率は1000人中で40人だった。いまは、150人になっている。子どもの予防接種は、80年代は100%、いまは50%に落ちている。アメリカの劣化ウラン弾の影響で、小児のガン患者が多い」。
私は、戦争で犠牲になるのは、いつの時代も子どもたちやお年寄りなどの弱い立場の人々だということを、ここでも痛感しました。
◆フセイン政権の幹部たち
超党派の訪問でおもしろいのは、単独の訪問では会えないようなその国の政権幹部に直に会えることです。
イラク訪問では、当時のフセイン政権のラマダーン副大統領やアジズ副首相にも会いました。バアス党の制服であらわれたラマダーン副大統領は、イラクのナンバー2といわれる人物だけあって、かなりの威圧感がありました。……握手してもニコリともしない。ズバリと話をする。激動の内外情勢のなかで、死線を越えてきた人物のすごみを感じました。
アジズ副首相は、湾岸戦争時代に外務大臣を務めるなど、テレビにも良く出ていたので比較的知られています。太い声でしゃべる重厚な人物でした。
このころのイラクは、フセインの独裁政権のもとにありましたので、公共施設については写真を撮ることも許されず、警備も厳重でピリピリした重苦しい雰囲気でした。
その後、アメリカが無法なイラク戦争を強行したり、米英軍事占領下のイラクに自衛隊を派兵する事態になろうとは、この時点では与野党の議員だれひとりとして想像することはできませんでした。
◆ヨルダンの難民キャンプを訪問
ヨルダンのアンマンから北へ約20キロのところにあるバカア難民キャンプを訪問したことも、印象的でした。
総面積は、約130万平方キロメートルで、ヨルダン国内最大の難民キャンプです。キャンプの設立は、1967年の第3次中東戦争で住居を失った難民約2万6000人が、その翌年5000のテントに住んだことが始まりです。
キャンプ内の人口は、8万5898人(難民7万5333人、避難民1万565人)。
ヨルダンの難民キャンプは、パレスチナの難民が約50年にわたってさまざまなかたちで集まって形成されました。キャンプと言っても、いまはテントを張っているわけではないのです。街ができているという感じです。
ここから自立して出ていった人は、約8割にのぼるといいます。しかし、残っている人、特に生活保護を受けている人々は、貧困そのものです。暗い不衛生なバラックのなかでは、靴のない痩せた子どもがスナック菓子を袋ごと持って走り回っています。
私たちが訪問した学校は、1993年に日本の援助でプレハブから鉄筋コンクリートに建て替えられたといいます。
約2000名の児童・生徒が2交代制で学んでいました。日本の子どもとパレスチナの子どもを描いた大きな絵が入り口に飾ってあったのが印象的です。
学校から出ると、子ども達が遊んでいます。カメラを向けると、沢山の子どもが集まってきて、いっしょに写真を撮ろうとすると、ピースをしてはしゃぎだし画面からはみ出しました。
◆軍事国家への道に反対して
2001年9月11日に、アメリカで発生した同時多発テロによって、これまでの事態は一変しました。
小泉内閣は、これをきっかけに自衛隊の海外派兵を一気に推進することになったからです。「報復戦争参戦法」の強行、「PKO法」の改悪、有事立法、イラク派兵法など憲法を踏みにじる暴挙です。
これにたいして、野党第1党の民主党は、ずるずるとこの路線にはまり込んで、「いったいどこが野党なのか」と言われるほどの閣外協力ぶりをしめしたのも特徴でした。
報復戦争参戦法には、ぎりぎりで反対したものの、その法律の実行(事後承認)に賛成、PKO法の改悪にも賛成しました。(その後2003年の話になりますが、民主党はイラク派兵法には反対したものの有事立法にも賛成しました)
民主党の責任はきわめて重大です。