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私の歩んだ道 その1 誕生〜大学院

平和への願いを込め「憲昭」と名づける

【写真】母に抱かれて(0歳)

私は、終戦の年、1945年11月に、北海道の銅山労働者の長男として産声をあげました。憲昭(昭和の憲法)という私の名前は、両親が「つらく悲しい戦争を二度と繰り返したくない。平和な時代に育つように」という願いを込めてつけたそうです。

私の父は、北海道の貧しい開拓農民の子でした。学校の成績は抜群だったのですが、貧しさ故に高等小学校を卒業しただけで、家計を助けるために働きに出なければなりませんでした。「学校だけは出なければだめだ」というのが、父の口ぐせでした。

母も、開拓農民の12番目に生まれた一人娘でした。そのため、大家族のなかで縫い物や洗濯物を山ほどかかえ、家事を切り盛りする働き者でした。

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明るく活発な少年時代、雪の中で元気に育つ

私は、両親の豊かな愛情につつまれながら、明るく活発な子どもとして育ちました。冬になると、雪の中で自由奔放にかけまわるわんぱく者でした。

私が、はじめてスキーをしたのは3歳のときでした。家の近くに父がつくった小さなスロープを滑ったことを、いまでもはっきり覚えています。小学校に入ると、近くの山に出かけ暗くなるまで、スキーで遊んでいました。一言でいえば、「スキーは我流で、度胸だけで滑っていた」というところでしょうか。

中学校に入ると、科学部やブラスバンド、バレーボール部などに属し、何にでも興味を持つ子どもでした。

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簿記、珠算、速記を身につけて(1961年〜)

【写真】中学生のときバレーボール部で活躍

私は、中学生のとき「家計の状況をみると大学への進学はむり」と考え「しっかり働いて両親を助けたい」と思うようになりました。そのため、函館商業高校に進学することにしました。この高校の後輩に、歌手の太田真季さんがいます。

私は、入学するとすぐに速記部に入りました。部活の勧誘にきた先輩部員が、黒板に不思議な速記文字をすらすらと書いたことに大いに驚き、人が話すスピードで書くことができる技に、たいへん感心したからです。

連日のような訓練を経て、検定試験(中根式速記)で特級に合格、全国大会にも参加しました。簿記(1級)や珠算(2級)にも合格しました。私の“負けず嫌い”の根性は、このころに培われたのかもしれません。

いったんは大学への進学をあきらめた私でしたが、どうしても大学で勉強したいという思いにかられるようになり、高校2年の時に両親を説得し受験勉強をはじめました。しかし、進学のための学習指導を受けられない職業高校のハンディキャップは、たいへん大きなものがありました。しかし、それも何とか克服することができ、小樽商科大学に進学することになりました。

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多喜二が学んだ大学で(1964年〜)

【写真】小樽商大の寮で。演劇のポスター、リーフは私がデザインしたもの

当時は、建設されたばかりの学生寮(智明寮)が小樽商大の隣にあり、その寮の窓から、小樽の街と海が一望できました。私は、奨学金やアルバイトで学費を稼ぎながら、そこで4年間すごすことになりました。

学生数が全学年で1000人にも満たない小さな大学のため、私は一時、弓道部や演劇部にも所属し、寮では哲学研究会やカトリック研究会にまで顔を出す学生でした。青春時代の充実した時をすごした智明寮は、いまはもうありません。まことに残念なことです。

小樽商大といえば、前身の旧小樽高商で、プロレタリア作家として有名な小林多喜二が学んだ学校です。私が在学していたころは、多喜二が学んだ木造校舎が、若草色のペンキに塗られて実際に使われていました。私の手元にある分厚い大学の卒業者名簿には、大正13年卒業者の欄に「小林多喜二」の名前があります。

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日本共産党との出会いと入党(1965年)

私は、原水禁運動や青年運動にも参加するようになり、「なぜ世の中に貧富の差が生まれるのか」という素朴な疑問から、科学的社会主義の文献にふれるようになりました。マルクスの「フォイエルバッハ論」、エンゲルスの「空想から科学へ」などを、寮の部屋にこもりノートを取りながら、むさぼるように読んだことを覚えています。

私にとっては、世の中の仕組みが次第に解き明かされる思いでした。読み進むうちに目の前が開けていくような気分になったものです。『資本論』は、大学2年のときに挑戦しました。はじめの価値論が難解で、はじめはなかなか歯が立ちませんでした。

日本共産党にふれたのは、そのような時でした。あの侵略戦争に命がけで反対を貫き通した党があったことを知って感動し、大学2年のとき19歳で入党しました。1965年9月のことでした。

私はその後、学生自治会の民主化にも取り組むことになりました。委員長候補として2回立候補。立ち会い演説会で相手候補と激しい論争を展開したことは、いまでは懐かしく思い出されます。その後は、ニセ左翼学生の暴力事件などが頻発するようになり、演説会を開いて論争するようなことはなくなったようです。

私は、大学3年のころから、独学で学んだ科学的社会主義の立場に立った経済学を、しっかり勉強したいと考えるようになりました。当時の小樽商科大学にはそのような授業がなかったからです。

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大阪市立大学の大学院で学ぶ(1968年〜)

【写真】大阪市立大学のキャンパスで

1968年4月、私は、大阪市立大学の大学院(経営学研究科)へ進み、儀我壮一郎教授のゼミ(企業形態論)に所属することになりました。

当時の大阪市立大学には、儀我壮一郎、上林貞治郎、林直道、一ノ瀬秀文、平井都士夫、柴田悦子、谷田庄三、梅川勉、笹川儀三郎、向笠良一など、錚々たる諸先生がずらりとそろっていました。いずれも、科学的社会主義の立場に立つ全国にも知れ渡った諸先生です。(残念なことに、上林貞治郎先生は2001年4月14日ご逝去され、6月23日堺市で「偲ぶつどい」がおこなわれました)。

私は、儀我、上林、一ノ瀬、宮川、宮本ゼミなどで学びながら、在学中の1970年に、たまたま日本共産党の「学生新聞」の懸賞論文に応募し、科学技術研究と大学問題をあつかった論文で入選するといううれしい体験もしました。また、日本共産党大阪府委員会の「大阪民報」に、関西電力の値上げ論を批判する論文を発表するなど、実践に役立つ政策問題に大いに興味を持つようになりました。

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