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憲昭からの発信

憲昭からの発信 − 寄稿文論文・対談

堂々と千島返還を求め続けよ

小樽商科大学同窓会・会報「緑丘」2006年2月


 私は、ゴルバチョフ(ソ連共産党書記長、85年〜)のもとで進められたペレストロイカ(改革・再構築)の時代、1986年の8月から9月にかけて、ソ連を訪問したことがあります。日本共産党の訪ソ代表団の一員としてでした。

86年に1カ月訪ソ

 ソ連はながいあいだ、自分たちが世界のリーダーだとばかりに覇権主義・大国主義の横暴な態度をとってきました。日本共産党は、自主独立の立場からこれと厳しくたたかったため、日ソ両党間には断絶も含む冷たい関係が続いていました。しかし、1984年12月にモスクワでおこなわれた日ソ両党会談で、ソ連側は、不一致点をわきに置いて、「核戦争阻止・核兵器全面禁止・廃絶をめざす」とする共同声明に合意しました。本心はともかく、それまでのソ連の核兵器政策を大転換する内容でした。
 合意の当事者だったチェルネンコ書記長は85年3月に亡くなり、ゴルバチョフが書記長になりました。日本共産党は、合意の実行を促すためにソ連共産党との関係を積極化させていました。
 このような背景でのソ連訪問でした。私は、参議院選挙(1986年7月)の比例代表候補として、二度目の国政選挙をたたかった直後でした。“休養をかねた視察”という意味もあったようです。

モスクワ、クリミア、古い都

 以下は、当時のおもな訪問記録です。
 1986年8月25日――モスクワ到着。
8月26日――当時のソ連の規定に従って、訪問団全員(12人)が健康診断を受ける。血液、尿の検査、胸部レントゲン、心電図、打診など。……これには、多少驚いたが、健康チェックは必要なことだからと納得。その後、「レーニン丘」など市内見学。
 8月27日――「レーニン廟」などを参観。……レーニン廟は、赤の広場のクレムリンの城壁沿いにある。入り口を入るとすぐ地下への薄暗い階段を降りる。レーニンの遺体は、「特殊技術」で生前の姿のまま保存されていた。「ここまでする必要があるのか」という思いが頭をかすめる。
 8月28日――朝、モスクワから空路クリミアへ。シムフェロポリ空港で、党ヤルタ州委員会の幹部が出迎え。ヤルタ市から9キロ南西のミスホールに到着。党幹部用の「赤旗・休息の家」に入る。美しい黒海に面したソ連党幹部の別荘。近くにゴルバチョフが休養をとっているという噂も耳にする。この休息の家で一週間ほど休養・視察・交流。
 9月1日――ヤルタ小学校の始業式に出席して、代表団員があいさつを述べる。
 9月2日――セバストポリ市内の第二次大戦中の攻防戦の跡などを見学。……驚いたことに、黒海で「ナヒーモフ号」が衝突・沈没し多数の犠牲者が出たというニュースが伝わった。代表団長が、見舞電を党クリミヤ市委員会に送る。
 9月3日――ヤルタ市内のチェーホフ記念館を見学。
 9月4日――午後、クリミアを発ち、空路レニングラード(ペトログラード)へ。夏から冬に変わったような気温の違いに驚いた。10数度低い!
 9月5日――10月革命の司令部のあった「スモールヌィ」を参観。その後、党レニングラード州委員会の書記と1時間余懇談。ネフスキー工場と幼稚園を視察。
 9月6日――レニングラード攻防戦の犠牲者の眠るピスカリョフ墓地を訪問し、花を捧げる。ペトロパヴロフ要塞、レーニン記念案などを視察。……私は、この時点で体調を崩してダウン(なれないロシアの食事が原因のようだ)。中年の看護士さんの親切な対応に感謝感激。
 9月7日――エルミタージュ美術館を見学。冬宮(ロマノフ王朝歴代の皇帝の宮殿)を中心としたいくつかの建物で構成され、ペテルブルクの中心にある。まずは、その大きさに驚かされる。しかも、どこかで見たことのある名画が、いかにも無造作に展示されているのがよい。この美術館では、フラッシュを使用しなければ写真撮影は自由。これにも驚いた。この日の夜、夜行寝台車でモスクワに向かう。
 9月8日――モスクワ。レーニンが最後の日々を過ごしたゴルキー村記念館を見学。帰途、コルホーズを訪問。
 9月9日――空路、日本へ。

「禁酒令」に辟易

 私が訪問したこの時のソ連は、ゴルバチョフがペレストロイカを始めたばかりでしたから、さまざまなぎくしゃくした状況もありました。
 そのひとつが85年5月に出された「禁酒令」です。ソ連の人々は、ウオッカを飲み過ぎて仕事に支障が出るから「飲むな」というわけです。かなり厳しいお達しのようで、すべての食事やレセプションで、出されるものはジュースのみ。ウオッカもワインもビールも、まったくありません。これには辟易しました。
 しかし、国民はそれをすんなりと受け入れるはずがありません。どこかで必ず掟破りがでてきます。当時の“笑い話”として、こんなのがあるそうです。――禁酒令を破ってウォッカで酔った男が、赤の広場をふらふらしていたところ、警官に拘束され厳しく問い詰められた。これを心配した友人が警察から出てきた男に聞いたところ、「な〜に、ウォッカをどこで手に入れたかって、しつこく聞かれただけだよ」。……
 この禁酒令は、密造酒とその密売に絡む犯罪が激増し国民的な批判が高まるなかで、4年ほどで撤回せざるを得なくなったそうです。

大国、覇権主義の害悪

 1990年、ソ連は崩壊しました。その原因や影響については、さまざまな見方があるでしょう。ただ、私たちとしては、長年にわたって世界の進歩的運動に害悪を流し続けた大国主義・覇権主義のが終わりを迎えたことについては、正直言ってホッとした面もありました。
 じっさい、これまでの歴史のなかで、ソ連共産党がスターリン・ブレジネフ時代から世界に及ぼしてきた誤り、大国主義・覇権主義の誤りが、どんなに重大な否定的影響をもたらしたか、はかりしれません。――1940年のバルト三国併合、45年の第二次世界大戦終結時における千島列島と歯舞・色丹の不法な占有、56年のハンガリー軍事干渉、68年のチェコスロバキア侵略、79年のアフガニスタン侵略などなど、……。
 このような野蛮な武力による民族自決権の侵害は、ほんらい対外干渉や侵略とはまったく無縁な科学的社会主義の理念を著しく傷つけました。そして、世界の平和・社会進歩のたたかいに大きな困難をもたらしました。日本共産党は、このソ連からの干渉にたいして生死をかけたたたかいをやってきました。
 このような対外的な大国主義は、国内的における官僚主義・民主主義抑圧と一体不可分のものでした。そのため国際的に孤立し、国民からも見放されることになったといえるでしょう。

領土問題の経緯

 ロシアの体制が替わっても、変わらないのは日ロ間の領土問題。――今年11月に行われたプーチン大統領と、小泉首相による日ロ首脳会談でも、この点についてはまったく進展がありませんでした。
 日本とソ連が国交を回復して、来年で50年になります。ほんらいなら、日本とロシアの戦後国境を画定して平和条約を締結し、両国関係を安定的に発展させることが必要です。
 なぜ、日ロの領土問題が解決に向かわないのでしょうか。この点で、日本がロシアに対して領土返還を求める根拠を果たして明確に示すことができているのかどうか、よく吟味することが必要です。
 もともと第二次世界大戦は、連合国側から見ると、ファシズム・軍国主義に対抗するという理念でたたかわれました。そのため、戦争に勝っても「領土の割譲」を求めないという基本的な考え方に立っていました。この「領土不拡大」の原則は、1941年の「太平洋憲章(米英共同宣言)」でも、ソ連が参加した「ポツダム宣言」で履行がうたわれている「カイロ宣言」(1943年)でも、確認されています。
 ところが当時のソ連の指導者スターリンは、対日参戦の条件として、不当にも千島列島のソ連への引き渡しをもとめ、1945年2月に結ばれた「ヤルタ秘密協定」でアメリカもイギリスもそれを事前了解したのです。
 この「密約」にもとづいて、1951年のサンフランシスコ講和条約に「千島放棄条項」が不当に盛り込まれました。そして、それを日本政府が受け入れてしまったのです。
 日本政府は、この「千島放棄条項」を事実上認めたうえで、その枠内で交渉しますから、どうしても「放棄した千島のなかには、国後と択捉は含まれていない。だから返してほしい」という国際的に通用しない主張になり、その論拠がたいへん弱々しいものになってしまうのです。

領土不拡大が原則

 いま大事なことは、従来の枠組みにとらわれず、第二次世界大戦の戦後処理にあたって国際的に確認された「領土不拡大」という原則を、きちんと踏まえた領土交渉ではないでしょうか。
 そもそも歯舞、色丹は北海道の一部であり、サンフランシスコ条約で日本が「放棄」した千島列島には含まれません。だから、ソ連の戦時占領が終わった時点で日本に返還すべきものだったのです。歯舞、色丹は、平和条約の締結を待つことなく、ロシアに返還を要求することは当然です。
 次に、領土交渉の対象になるべき「千島」とはどこまでをいうのでしょうか。
 歴史的に言えば、千島列島は国後(くなしり)から占守(しゅむしゅ)までの全島が、日ロ間で平和的に結ばれた二つの条約、すなわち1855年の「日魯通好条約」と、1875年の「樺太・千島交換条約」によって、日本の領土と決められていたのです。
 最近、インターネットで配信されているロシアの情報サイト「プラウダ・ル」(英語版11月12日付)に、「日本に関する真実と嘘」と題する無署名のコラム記事が掲載されました。このなかで「クリル諸島(千島列島)は最初からロシアの領土だったとロシア人は教えられている。(しかし)クリル諸島の中央部と北部がロシア帝国の一部だったのは1871年[ママ。75年が正確]までで、この年に日本に引き渡されている」と書いています。――ソ連時代にソ連共産党の中央機関紙だった「プラウダ」がこのように書いたことは、たいへん注目に値します。

中国、バルト三国とは解決

 日本は、戦後処理の不公正をただすという原則的な論拠をはっきりさせて交渉することが必要です。全千島の返還が合意され、日ロの国境が最終的に画定した段階で平和条約を結ぶという大道に立ち戻るべきです。
 返還される千島列島に、現にすんでいるロシア住民はどうなるのでしょうか。私たちは、彼らの生活と権利を保障することも大事なことだと考えます。そうしてこそ、将来に渡りしっかりとした友好関係を築くことになるはずだからです。
 ソ連による不当な領土拡張については、バルト三国がソ連から分離・独立するなど、ほとんど解決されています。今年の6月にも、中国とロシアの外相会談が開かれ、中露国境最終確定協定の批准書交換が行われました。中露間の国境画定は、じつに41年ぶりのことだそうです。
 国際的な道理に反する条約・条項を直すことは、「条約法に関するウィーン条約」(1969年)など、国際法でも認められています。また、条約・条項それ自体を削除・修正したりしなくても、サンフランシスコ条約の沖縄条項のように、交渉によって内容を事実上変更することも可能です。
 今後、平和で豊かな国際関係が広がるように心から期待し、またそのために、これからも微力ながら努力するつもりです。

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