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憲昭からの発信

憲昭からの発信 − 寄稿文

随想「タイムスリップ」

東京函商同窓会・機関誌「臥牛」2001年


 「あっ。この風景だ!」。私は、思わずその場に立ちすくみました。それは、一瞬にして高校時代へとタイムスリップさせたのです。
 大都会の片隅の古びた三階建てのビルの壁に浮かび上がった「中根式速記学校」の文字。「こんなところにあったのか」……私は、懐かしい思いにひたりながら、しばらくの間そこにたたずんでいました。……わずか三年ほど前のできごとです。

夏の全国大会

 さかのぼること三十数年。函館商業高校時代、私は速記部に所属しておりました。放課後には毎日、クラブのメンバーとともに練習に励み、ときには休日も学校に出掛けて特訓をするという力の入れようでした。そのかいあって、速記検定試験で特級に合格しました。
 八月の暑い東京で開かれた速記の全国大会に、速記部の数人のメンバーとともに参加できたこと、全国の速記クラブの高校生たちと交流できたこと……いまでは懐かしい思い出です。当時は函館に飛行場がありませんでしたから、青函連絡船に乗って、青森からは汽車に揺られて東京に行ったものです。蒸気機関車の煤で、顔を真っ黒にして東京についたことを覚えています。

中根式速記学校

 そのときに立ち寄ったのが中根式速記学校でした。
 しかしその後、その学校がどこにあったのか、私はすっかり記憶の片隅に追いやったまま、三十年以上ものながいながい時を過ごしてしまいました。
 その速記学校は、靖国神社から九段坂をおりたところにあったのです。
 神社のすぐ裏に、私が利用している衆議院九段議員宿舎があります。一九九六年十月に衆議院に初当選(東海ブロック選出)したあと、付近の散策にでかけました。九段坂を下り、皇居の田安門を右に見ながらさらに下ると、靖国通りと目白通りの交差点があり、そこをさらにすすんで神保町にむかう途中、偶然にも中根式速記学校を「発見」したのです。ほんとうに驚きました。

「ペリカン会」

 当時の速記部員は、「ペリカン会」という同窓の会をつくりました。顧問の先生のあだ名をとって、ペリカンという名前をつけたようです。私は、函館から遠く離れていたのでなかなか参加できなかったのですが、三年前(九八年)に函館で久々に開かれたペリカン会に、はじめて参加することができ、楽しいひとときをすごしました。
 それぞれの人生を別々に歩いてきたにもかかわらず、速記部のメンバーは、三十年以上たってもまったく変わっていませんでした。風貌が多少変わったとしても、人間の性格は決して変わるものではないということを、そのときつくづく実感しました。

小樽商大へ

 上磯中学から函館商業高校に進学した私は、家庭の経済事情から、大学への進学は無理とあきらめていました。しかし時の経過とともに、どうしても進学したいという強い思いにかられるようになりました。
 高校二年のとき、思い切って進学について両親を説得したものの、受験勉強はなかなか大変でした。それでも職業高校出身というハンディはありながらも、何とか小樽商科大学へすすむことができました。受験科目のなかに、「商業一般」や「簿記」があったことが幸いしたのではないかと思います。一九六四年のことです。
 小樽商科大学(旧小樽高商)といえば、作家の伊藤整や小林多喜二が学んだ学校です。私が入学した当時、彼らが学んだ古びた木造校舎が若草色のペンキに塗られて残っており、廊下を歩くとギシギシと音がしました。
 私は、プロレタリア作家・小林多喜二に強い興味をもつようになり、作品を読みあさりました。いま、私の手元に分厚い「小樽商大卒業者名簿」があります。その大正十三年の卒業生の欄に、はっきりと「小林多喜二」の名前があります。

働く者の学問とは

 小樽商大に入学した後、私は奨学金やアルバイトで学費を稼ぎ、学生寮で生活をしながら学びました。弓道部、演劇部に所属する一方、原水禁運動や青年運動、社研にも参加。高校時代に味わえなかった自由でバンカラな校風のなか、充実した学生生活をおくることになりました。
 このなかで私は、「労働者の立場にきちんと立った学問がしたい」と思うようになりました。それは、当時の小樽商大のカリキュラムでは、どうしても得られないものだったからです。大学院にすすんで科学的社会主義の立場にたった経済学を学びたい……こんな気持ちになったのも、私が体験してきた世の中の貧富の差、社会の理不尽なありようを正したいという思いが心の底に流れていたからかも知れません。
 一九六八年には、その思いをかなえるため大阪市立大学の大学院に進み、修士・博士課程を卒業しました。

貴重な体験

 一九七三年、二十七歳のとき、私は日本共産党本部の政策委員会に勤務することになりました。当時の政策委員長は上田耕一郎さん(元参議院議員)、経済政策委員長は工藤晃さん(元衆議院議員)でした。
 私がはじめて国政選挙の候補者になったのは、一九八三年の比例代表選挙。その後三回の参議院選挙と一回の衆議院選挙を体験して、九六年十月の総選挙で初当選、現在二期目となり、今年(2001年)から衆議院で予算委員をしています。

 ……まわりまわって三十数年。高校時代のあの懐かしい風景にふたたびめぐりあうことができたことに感謝しつつ、若い進取の気風を思い起こし、これからの励みにしていきたいと思っています。
佐々木憲昭(新十六回生)

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