奮戦記
【07.03.24】元官房副長官「経財諮問会議設置を提案した」と証言
「言論NPO」というサイトのなかに、「安倍政権の100日評価」というコーナーがあります(“Yahoo!みんなの政治”からも内容を見る事ができます)。
そのなかで、1987年から1995年まで内閣官房副長官をつとめた石原信雄氏が、「橋本行革のときに、経済財政諮問会議の設置を提案したのは私でした」と発言しているのが注目されます。
私の編著『変貌する財界―日本経団連の分析』の第3章で、山下唯志さんが「首相権限の強化によって、『小さな政府』路線を遂行する基盤を作った。そのひとつが内閣府に置かれた経済財政諮問会議であり、これを橋頭堡として財界自身が直接これに乗り込んでいく」と書いています。
そのことを、当時、内閣官房副長官をしていた当事者の言葉で、以下のように明らかにしています。
「80年代から90年代に日本経済全体の成長率がピークに達して、行政の面でも守りの時代に入ってきました。特にバブル崩壊後は、行政を縮小しなければならない。言うなれば撤退作戦をしなければならない分野が出てきました。そうなると、各省の分担管理は非常に難しくなります。……そのようなときには、行政全体、政治全体をにらんでいる総理大臣が、この省は撤退しろということを言わなければならない」。
「それが最も切実な要求になってきたのは、バブル崩壊後の橋本内閣以降です。バブル崩壊で日本の経済成長力が落ち、税収も減り、それまでの行政水準を維持できなくなった。どうしても歳出削減、行政の守備範囲の縮小をしなければならず、内閣が前面に出ていかなければならない。……そこで、議院内閣制のもとにおける内閣の、特に総理大臣官邸の指導力を強化することをねらった改革の1つが橋本行革でした。当時は省庁の再編成が大きな関心を呼びましたが、あのときの改革の一番の重点は、内閣機能の強化であり、その1つの成果が、経済財政諮問会議でした」。
「橋本行革のときに、経済財政諮問会議の設置を提案したのは私でした。内閣機能を強化するにはどうすればいいか、私は、この国を動かしていく一番の基本は予算であり、財政であり、経済政策であり、それは従来の各省がばらばらにやっていて、専ら大蔵省の主計局の査定の力だけでやる時代はもう過ぎたと考えました」。
しかしここに、日本経団連の強い意志が働いていたのです。石原信雄氏は、そこに意識的にふれていません。……財界との関連を詳しく分析しているのが、『変貌する財界――日本経団連の分析』です。