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財政(予算・公共事業) (予算案)

2005年02月23日 第162回 通常国会 予算委員会≪公聴会≫ 【277】 - 質問

予算委員会公聴会始まり、大学教授らが公述

 2005年2月23日午前、予算委員会公聴会が行われ、2005年度予算案について学者・有識者が公述し、日本共産党から佐々木憲昭議員が質問しました。
 午前の公述人は、井堀利宏氏(東京大学大学院経済学研究科教授)、梶原拓氏(前岐阜県知事・前全国知事会長)、石橋克彦氏(神戸大学都市安全研究センター教授)、山田昌弘氏(東京学芸大学教育学部教授)です。
 公聴会は、午後にも開かれました

議事録

○井堀公述人 東京大学の井堀です。よろしくお願いします。
 私のきょうお話しする主要なテーマは、平成十七年度の予算でも定率減税の一部廃止縮減の話が出ていまして少し増税の動きもありますが、これからの中期的な財政再建を考えたときに、どの程度の増税が必要不可欠なのかということを中心にお話しさせていただきたいと思います。
 財政状況は非常に厳しいわけですけれども、今の政府の公式の目標ですと、二〇一〇年代初頭にプライマリーバランス、いわゆる基礎的収支の均衡化あるいは黒字化を図るというのが量的な財政再建目標として掲げられているわけです。
 この目標の意味するところというのは、御存じのように、公債残高の対GDP比が二〇一〇年代初頭になると発散しない、つまり、時間がたってもGDPと同じ割合でしか公債残高がふえない。そういう意味で、必要最小限の財政再建を量的に進めるときの目標としてプライマリーバランスの均衡化あるいは黒字化ということを目標として掲げているわけですが、実はこの目標は、公債残高の対GDP比を安定化させるには、私のレジュメのところにも最初に書いてありますように、金利と経済成長率が等しいというのが前提になります。
 この予算委員会でも一月に内閣府の方から展望の試算が出たと思いますけれども、その試算でも、二〇一〇年代初頭に金利と経済成長率は等しい、そういう想定を置いて、その想定のもとでは、プライマリーバランスを均衡化、あるいは黒字化といってもほとんどゼロですけれども、そこまで持っていけば公債残高の対GDP比は発散しないで一五〇とか六〇ぐらいで安定化する、そういうことなんです。ただし、これは金利と成長率の関係次第でかなり動き得る数字で、現実を見ますと、成長率よりも名目金利の方が高い状況の方がよりもっともらしいだろうと思います。
 したがって、今の政府目標というのは相当楽観的な、あるいはこれを改革がうまくいくというぐあいに表現することもできると思うんですが、逆に言うと、相当楽観的なケースを前提にして、そのもとでの必要最小限の財政再建としてプライマリーバランスの均衡化を掲げているということになります。
 しかし、もしも金利の方が経済成長率よりも高い状況が今後中期的に続いていくとすると、プライマリーバランスを均衡化しただけでは、依然として現在と同じように公債残高の対GDP比はどんどん上昇し続けるままで、財政再建の量的な見通しが立たないままに二〇一〇年代に入ってしまう、こういう状況を迎えることになります。
 したがって、金利と経済成長率が等しいというある意味で楽観的なケースだけに頼って、余りにも財政再建を量的なところに対して楽観的な数字だけで、必要な歳出削減なり増税への努力を怠ったままこれから五、六年あるいは七、八年たってしまいますと、その後で財政状況が予想以上に相当厳しくなったときに、大幅に財政歳出を削減したり、あるいは大幅に増税をせざるを得ないような状況に追い込まれることになりますので、その方が、将来、国民経済にとっても非常にマイナスの影響が出てくることになります。
 したがって、より慎重な見通しのもとに、多少金利が経済成長率よりも高くなってもある程度量的な財政再建が中長期的に達成可能であるような、そういうシナリオを現在からきちんと示して、そのもとで歳出削減を進めると同時に、必要不可欠な増税がどの程度あり得るのかについてももう少し真剣に議論する時期に既に来ているのではないかと思います。
 具体的にはどの程度の量的な引き締めが必要かといいますと、現在の政府目標というのは対GDP比で見て四%ポイントぐらいの財政収支の引き締めを想定しているんですけれども、金利が経済成長率よりも多少、一%か二%ぐらい高いという状況、これは、一九八〇年代以降の平均的な数字を当てはめると大体金利の方が経済成長率よりも一%から二%高い状況が続いているわけですけれども、その状況が今後も続くと想定しますと、実際には三%から四%ぐらいのプライマリーバランスの黒字に持っていかないと公債残高の対GDP比は発散する状況が依然として続いてしまう、こういう状況になります。
 したがって、現在想定している歳出削減よりもある意味ではその二倍程度の量的引き締め、増税と歳出削減の両方の組み合わせで今の想定の二倍程度の引き締めが今後七、八年の間に必要になり得る、そういう慎重な見通しのもとに、もう少し真剣に歳出削減の努力と増収を図る努力について具体的に考える必要があるのだろうと思います。
 歳出削減ですけれども、御存じのように、日本が相当少子高齢化が進んでいますので、社会保障費は自然のままでほっておいてもかなり伸びますので、これを対GDP比と同じ割合に落とすだけでも相当大変ですけれども、それをさらに四%ポイントも下げるとなると、大幅な社会保障の制度改革なしにはある意味で実現不可能な数字なわけですね。
 さらに、自然増収を考えますと、確かに景気がよくなれば税収はふえますけれども、そうはいっても名目の経済成長率はそれほどふえませんから、今現在、ほぼデフレかインフレかぎりぎりの、物価水準はほぼゼロの状況ですから、この物価水準が多少上がったとしても、高度成長期のように名目経済成長率が一〇%を超える状況は非現実的だろうと思います。
 したがって、仮に経済が好調になってデフレから脱却したとしても、それほど極端に自然増収は期待できない。さらに、高齢化の圧力で歳出削減に対しては相当厳しい制度的な課題があるということを考えますと、四%ポイント程度削減するのであっても、相当厳しい歳出削減と経済の活性化を前提にしているわけですね。さらにそれに加えてプラスの、残りの三から四%ぐらいの量的な引き締めが必要だとなると、これはどう見ても裁量的に増税せざるを得ないだろうと思います。
 今、裁量的な増税というのは、ある意味で税率を変えたりあるいは課税ベースを変えるという形で税制改正をするということですけれども、そういった裁量的な増税をしないままいきますと、これから四、五年たった後で、逆に言うと極端な増税をその時点になって初めて検討せざるを得ないとなりますと、これは国民にとっても非常に大きなマイナスのショックになりますので、そういった増税に対する不安感を解消するためにも、必要最小限の増税がどのくらいなのかということについてもう少し国民にきちんとした情報を開示して、それなりの協力を求める必要があると思います。
 仮に、それを消費税の増税だけでやるとしますと、四%ポイントぐらいの裁量的な増税というのは消費税に直しますと八%ぐらいの消費税の税率の引き上げにほぼ相当します。これを、一つの試算ですけれども、毎年一%ポイントずつ消費税を上げるとすれば、現在から八年間で今の五%の消費税を一三%ぐらいに上げればほぼ四%ポイントぐらいの税収の増加が確保されますので、それが裁量的な増税の一つの大きさになります。
 ただ、消費税を一三%まで上げるかわりに、消費税を例えば一〇%ぐらいの上げ幅に抑えて、残りの三%ポイントぐらいを別の形で増税するということも当然選択肢になるわけで、例えば、レジュメに書きましたように、住民税の税収をもう少し大幅に確保する。一つの案としては、均等割を今の数千円のオーダーから数万円のオーダーにするだけでもこれは数兆円規模の増収効果がありますし、あるいは、国税としての所得税の人的控除を、特に配偶者に関しての人的控除を大幅に削減する、これは女性の社会進出にとってもプラスだと思いますが。そうした効果でもやり方次第では兆単位の税収増が確保できるわけですけれども、そういった具体的な税収の増加についてある程度の議論をするべきであると思います。
 ただし、増税する場合は、きちんと税金を取る人から取っているんだ、そういう増税に関する負担に関しての公平感を確保する必要がありますので、納税者番号制度をきちんと入れて、だれがどういった形で特に資産を形成しているのか、蓄積しているのかの情報を長期的にきちんと税務当局が把握しておくというのは、所得税の捕捉を間接的に補強するものとして有効だろうと思います。
 それからもう一つは、増税という形で税収が入ったとしても、それがむだに使われるということであれば国民は、あるいは納税者は納得しないわけですから、やはり税金がきちんと使われるということの担保をする必要があると思います。
 これはもちろん、この場のように予算委員会できちんとした予算が審議されて納税者の意向に沿った形で予算が執行されるというのが本来ですし、それが望ましいわけですし、そういった形で日本の現状が進んでいることを私も期待しますけれども、同時に、それを補完する意味で、納税者が何らかの形で税金の使い道についてある程度指定できるような、そういう制度も間接的に考えてもいいのではないか。それで、レジュメのところで納税者投票というのも書きましたけれども、これは、所得税の使い道についてある程度納税者がその使途を指定できるような、そういう仕組みも入れると、税金がきちんと使われるということに関する納税者の理解もより得やすいのではないかと思います。
 それから、税金を取る場合の大きな論点はやはり消費税になるわけですけれども、消費税に関しては公平性の観点からいろいろな反対意見があって、なかなかこれをクリアするのは難しいと思いますが、ただ、公平性の観点からいいますと、消費税はそれほど不公平な税ではないんだろうと思います。
 なぜかといいますと、人々の経済的な格差というのは何に反映されるかというと、その人がどれだけ消費をたくさんしているか、あるいはたくさんできないかという消費行動の格差に反映されるんだろう。つまり、お金をたくさん稼いでもそれを使わないまま資産として残して死んだ人はそれほど経済的には豊かな生活をしているとは言えないわけですね。たくさん使って初めてその人が経済的に高い生活を享受しているということになりますから、逆に言うと、消費水準の高さというのはその人の経済力を反映する一番有力な指標になります。ということは、消費に対して課税するわけですから、消費をたくさんしている人からたくさん税金を取るのはそれほど不公平な税ではないわけですね。
 消費税で一番公平的な税というのはいわゆる直接税タイプの消費税で、つまり消費額に対して累進的に税金をかけるという税ですが、これは、一年間のその人の消費額が実際上捕捉できませんから、なかなかできない。そのかわりに、間接税タイプの消費税というのはその都度その都度消費に対して比例的に税金がかかるわけですから、直接税タイプの支出税に比べると累進税が適用できないという分だけ再分配効果はないんですけれども、だからといって逆進的でもないということですね。
 その意味で、消費税はそれほど不公平ではないので、消費税の税率が二けたに上がったからといって特に消費税に関して再分配を是正するような、例えば複数税率の導入というのは余り望ましいことではないと思います。
 複数税率を入れる場合によく議論されるのは、食料に関する非課税とか軽減税率を入れるケースがあるんですけれども、日本の場合、データで見ても、特に低所得者の人が集中的に食料だけを多く消費しているということはありませんので、食料に関して軽減税率を入れたとしても再分配効果は余り期待できない。そのかわりに、むしろ複数税率が入ることによるいろいろな攪乱効果が大きくて、メリットが余りないばかりか、デメリットの方が大きいだろうと思います。
 それから、消費税と所得税とは、つまり一般的な税と考えるとほとんど同じようなものでして、ここはテクニカルになりますので時間の関係で省略しますけれども、要するに、使う段階でかかるのが消費税で稼ぐ段階でかかるのが所得税ですけれども、消費する以上はその所得として稼いでいるわけですから、長い目で見れば、所得として稼いだものは基本的にはすべて使われるはずなわけですね。もちろん貯蓄もするわけですけれども、最終的には使い切るのが合理的な、経済的な行動になります。遺産を入れると多少この話は違ってくるんですけれども、遺産の場合は、もらう遺産と残す遺産がほぼ同じであれば相殺できますから。
 その意味で、消費と所得はほぼ同じなので、消費にかける消費税と所得にかける所得税というのは、経済的な効果というのはそれほど違いがないんですね。つまり、例えば二〇%の所得税をかけるということと二五%の消費税をかけるというのは、ともにフラットな比例税だということで考えれば、ほぼ同じ経済的な効果を持っています。逆に言いますと、例えば北欧諸国は二五%の消費税を入れているわけですけれども、これは、二五%の消費税を入れているという見返りに二〇%のフラットな所得税、労働所得税を入れているんだ、こういうぐあいに考えることもできるわけですね。
 だから、日本の所得税の税制が相当フラット化している現状ですと、所得税と消費税というのはそれほど大きな効果はないわけですから、その意味で、課税、徴税の面での透明性、つまり所得よりも消費の方がいろいろな意味でわかりやすいという面からしますと、消費税をもう少し活用するというのはそれほどおかしいことではないんだろうと思います。
 ただし、消費税を活用する場合の一つの大きな懸念は、いわゆる社会保障に関する福祉目的税という形でこれから高齢者がどんどんふえるときに社会保障の受給と消費税とが完全にリンクがなされてしまいますと、受給世代というのはこれから政治的な発言力が非常に強くなるわけですから、その人たちの財源として消費税が活用されますと、社会保障の財源が足りなくなると消費税を上げればいいという形で、ある意味ではむだな、大きな政府になりやすい。そういうインセンティブを消費税を福祉目的税化すると持ちますので、やはり消費税というのは一般税源のもとで有効に活用されるという前提のもとで、必要最小限の財源として消費税を活用するんだという方向で、足りなければ消費税で何とか福祉財源をやればいいんだ、そういう方向で消費税は活用すべきではないだろうと思います。
 それから、最後ですけれども、定率減税の縮減、廃止等も含めて増税をこれから多少ともやっていきますと、マクロ経済に与える効果あるいは景気回復との関係でどうなんだという疑問なり不安感も当然出てくると思うんですが、問題は、増税する場合にその財源がどこに行くのかというところが問題で、増税してそれを歳出の拡大に使ってしまうのでは、当然、国民、納税者にとってみれば税金が取られっ放しですから、可処分所得が減りますので、消費は落ち込みます。
 ただし、増税しても歳出がふえないで、それが過去の借金の返済に充てられる、つまり、増税した分だけそうでない場合に比べると国債の残高が相対的に減って、それも将来の増税要因が相殺されるということであれば、必ずしも増税というのは長期的に見た増税につながっていないということですね。つまり、現在増税するということは将来の増税要因を消しているわけですから、中長期的に増税要因にならない以上、それほど消費を抑制する効果もないんだろうと思います。
 それで、レジュメ三ページの最後の方に書きましたけれども、マクロ経済の安定化にとって一番重要なのは、財政面からいうと、いわゆる自動安定化効果に期待する。つまり、景気がよくなれば何もしなくても税収はふえるわけですね。景気が悪くなれば何もしなくても税収は減りますから、その分だけマクロ経済にとっての安定化効果があるわけで、裁量的に増税したり減税したりすることによってマクロ経済を活性化するということはあえて必要ないんだろう。その意味で、マクロ経済の動向と並行して、余り景気のよしあし等に一喜一憂しないで、中長期的に必要な増税に関しては粛々とやる方が望ましい。
 これは、課税の平準化あるいは負担の平準化という観点から、経済的には一番もっともらしいやり方で、つまり、一時期に集中的に増税するよりは、どうせ増税するのであればなだらかに増税する方が国民経済にとっての負担は小さくなりますので、その意味で、これから中長期的にある程度の増税が避けられないということであれば、それを先送りするのではなくて、現在から少しずつ増税していく方が国民にとっても負担感も少なくなりますし、結果としてマクロ経済にもプラスになる。だから、景気がいいから、あるいは景気が悪いからといって増税を先送りしてしまいますと、結果として将来重い負担を残すという意味で、まずいのではないかと思います。
 大体時間になりましたので、もし質問があれば後で聞かせていただきます。
 以上です。(拍手)
○甘利委員長 ありがとうございました。
 次に、梶原公述人にお願いいたします。
○梶原公述人 梶原でございます。
 今月の初めに全国知事会会長を退任いたしましたが、全国知事会、市長会、町村会、それからそれぞれの議長会、これは地方六団体と称しておりますが、地方六団体がいわゆる三位一体改革にどのような考えで取り組んできたか、また地方分権改革にどのように取り組んできたか、その点についてお話をさせていただきたいというふうに思います。
 お手元に資料をお届けいたしておりますが、その一ページにございますように、地方分権改革、三位一体改革は、単に国と地方との間の権限、財源の奪い合いではないということでございまして、幅広い、あるいは根の深い改革というふうに我々は意識をしておりまして、行政改革であり政治改革であり、あるいは生活改革、社会改革、産業改革、こういうような幅広い改革につながっていくものだという認識をいたしております。そして、一の一番下にございますように、地域、個人の潜在能力を解放していくということが日本全体を生き生きとした社会にしていく、こういうことではないかということでございます。
 二にございますが、歴史的視点から見た場合、歴史の大きな流れから見ますと地方分権改革というのは歴史の必然である、このような認識をいたしております。基本的に、官僚政治から市民政治へという、四百年のサイクルで日本の政治権力の中心が移行いたしておりまして、平安遷都から鎌倉幕府、そして徳川幕府、そして今日に至っている、こういうような考え方もございます。
 それから、明治維新は中央集権改革でございましたが、我々が今進めている平成維新は地方分権改革である、地方分権革命であるというふうに認識をいたしております。二ページに参りまして、工業社会から情報社会へ移行していくということは、画一社会から多様性の社会へ移行しなきゃいけないということでございまして、そういう意味からも分権改革は必然である、かように考えております。
 それから、(三)にございますが、大正デモクラシー運動が盛んに行われて、その結果、昭和三年に第一回普通選挙が行われております。後ほど説明させていただきますけれども、第一回の普通選挙の際の立憲政友会、これは今の自民党の前身の一つでございますが、その選挙公約が地方分権ということでございました。
 御案内のとおりでございますが、立憲政友会は、市民派ということで民党と呼ばれておりました。もう一方の立憲民政党は、官僚派ということで官吏の吏党と呼ばれておりました。
 その後、軍国主義体制に入りまして、いわゆる民党派が影を潜めていった、こういうようなことでございます。石橋湛山先生が早くから地方分権を、特に税源移譲というものを唱えてこられました。
 「地方分権推進の必要性」が三にございますが、現在は高コスト不満足社会と言っていいのではないかと思います。非常に硬直化している、縦割りだ、規制が強過ぎる、そしてみずから決定権がないという不満足な状況である、全体が甘えの構造、護送船団で依存社会であるということで、地方分権をしていくということが真の構造改革であり究極の財政再建である、一言で言うと、自己責任社会に日本全体を持っていかないと究極の財政再建はできないというふうに考えております。
 三ページに参りまして、住民主権、市民政治ということは、なるべく生活者に近いところで政治、行政を行うということが透明性を高めるし、また情報公開の効果も高い、市民参加もやりやすいというようなことでございまして、代表制民主主義と同時に地方自治が併存することによって真の民主主義となるということでございます。
 ヨーロッパでは、第二次世界大戦、ナチズムの反省から、つまり、余り権限が中央に集中し過ぎると、独裁者が出た場合に大きく国がぶれてしまうということで、足元をしっかりしようという反省、そういうことで、ヨーロッパ地方自治憲章というものが一九八五年に制定されております。
 地域に自由を、市民に権利をというのが我々の地方分権改革のスローガンということでございます。
 「国と地方の役割分担のあり方」でございますが、地方自治体の実力はどうかということでございまして、国際的に経済規模というものを見てみますと、ブロック別に、これも後ほど御説明しますけれども、広域の単位で考えると、ノルウェー、アルゼンチン、イギリス、スイス、ブラジル、メキシコ、ベルギー、ポルトガル、オーストラリア、ベトナム、この十カ国を一つのところでコントロールしようということで、物理的に中央集権というものが限界に来ているというふうに考えていいんじゃないかと思います。
 この地方自治の基本原理は、ヨーロッパ地方自治憲章それから世界地方自治憲章の案というのがございまして、これが民主主義の、あるいは地方自治のグローバルスタンダード、こう言ってもいいのではないかと思いますが、近接及び補完の原理ということになっております。なるべく基礎的自治体、日本の場合でありますと市町村に権限、財源を優先させる、そこで処理できないものをより広域な団体で処理させる、これが日本でいえば都道府県でございまして、そこでもなお処理できない国防、防衛、通貨、金融政策等々は国の事務である。こういう近接、補完の原理というものが現在の先進国の民主主義、地方自治のグローバルスタンダードであるというふうに我々は考えております。
 ということで、三ページの(三)にございますように、国の関与、規制をどんどん緩和し、あるいは是正していくべきだということを主張いたしております。
 次のページ、資料一というのがございますが、これは、昭和三年、一九二八年、今から七十七年前ですか、大正デモクラシーの成果として、第一回の普通選挙が行われました。これが先ほど申し上げた立憲政友会のポスターでございまして、「地方分権丈夫なものよひとりあるきで発てんす」、一方「中央集権は不自由なものよ足をやせさし杖もろふ」と。これが第一回普通選挙の立憲政友会の選挙公約ということになっておりまして、今日これをそのまま持ち出しても十分通用するということで、八十年近くほとんど変わっていないという現状でございます。
 資料二でございますが、「地方分権は何故必要か」ということでございまして、これは、先ほど申し上げましたように、やはり硬直社会に今なっております。全国一律、画一でコントロールされている、これをもっと地方に任せて、柔軟な、創意工夫ができる社会に持っていく。
 それから、縦割り社会。各省庁別、局別、課別、ひどいときは係別で縦割りの補助金とか規制が行われているということで、横割りの仕事ができないということになっておりまして、もう莫大なむだを生んでおります。
 それから、過度の規制によって創意工夫が生かされないということになっております。
 そういうような状況で、地域、市民、非常に満足感を抱けないというような閉塞状況になっておるわけでございまして、分権型にしてより透明性を高める、そして自分たちも、自分たちの生活にかかわる行政についてみずから参加できる、こういうことによって初めて満足感が出てくるということでございます。
 総じて、最後にございますように、日本はまだ、護送船団といいますか甘えの構造といいますか、依存社会でございまして、地方自治体相互の競争原理というものももっともっと導入しなきゃいけないということでございまして、しっかりやらない首長は選挙で落選をするということにしなきゃいけない。今は、いや国が悪いんだとか、そういうツケ回しができる状況であるということでございまして、次のページにございますように、そういう改革をして低コスト満足社会へ持っていくべきである、これが究極の財政再建である。
 世界の政治経済学者が提唱しておりますリヴァイアサン仮説というのがございまして、税財政面で分権が進むほど、国、地方を通じた歳出規模は縮小するということでございます。世界六十二カ国の二十世紀終わりごろの二十年間のデータを用いた実証研究がございまして、一国の総収入に占める地方自主財源の割合が一%増加すると、国、地方歳出は国内総生産、GDP比で〇・二九%減少するというようなことでございます。
 例えは正確じゃないかもしれませんが、自分たちのお金を税金で納める、それが国に入って戻ってくるときは、一種のマネーロンダリングで人の金になって来ていますから、非常にむだな使い方をする。やはり自分の金として使うようにしないと大きなむだが出てくる、端的に言いますとそういうことではないかということでございます。
 次のページに「各地域ごとの経済力の国際比較」という図がございまして、これは先ほど申し上げましたように、上から、北海道はノルウェーに相当する、東北はアルゼンチンに匹敵する、関東はイギリスに匹敵する、それから東海はブラジルに匹敵するというようなことで、これだけの経済力のある広域ブロック、それぞれが一国の力を持っているんですが、これをまとめてコントロールしようということ自体がもう限界に来ている、国際的にそういう視野で見ていかなきゃいけないんじゃないかということでございまして、その次のページにブロック別のいろいろな指標を出しております。
 それから、最後に資料四がございますが、世界地方自治憲章の案というものがございまして、これは、中国とアメリカの反対によって日の目を見ておりませんが、ヨーロッパ地方自治憲章をベースにした、民主主義あるいは地方自治のグローバルスタンダードと言ってもいいと思います。
 日本政府もそれに賛成をしておったわけですが、この下の囲みにございますように、平成十二年、いわゆる地方六団体も、これが我々が目指す地方分権の推進、地方自治の確立と軌を一にするものである、このような動きが今や世界の潮流であるということで、その実現に向かって努力すべき、こういうような決議をし、声明を発表いたしております。
 以上のような基本的な考え方で三位一体改革あるいは地方分権改革に我々地方六団体が取り組んできた、そういうことでございますので、ひとつ御理解を賜りたいと思います。
 以上でございます。(拍手)
○甘利委員長 ありがとうございました。
 次に、石橋公述人にお願いいたします。
○石橋公述人 神戸大学都市安全研究センターの石橋と申します。よろしくお願いいたします。
 私は地震の研究をしておりますが、その立場から、迫りくる大地震活動期は未曾有の国難であるというテーマで、それを賢明に乗り切るためには、地震対策、地震防災対策というような技術的あるいは戦術的な対応では到底しのぎ切れなくて、私たちの国土あるいは社会経済システムというものの根本的な変革が必要ではないでしょうかという意見を述べさせていただきたいと思います。
 日本列島の大地震の起こり方には、活動期と静穏期というのが認められます。これは地学的、物理的に根拠のあることであります。非常に重要なことは、敗戦後の目覚ましい復興、それに引き続きます高度経済成長、さらには、人類史上まれに見る技術革新の波に乗って都市が非常に利便性を高めた、高度化、高度に集中した都市が発展した、それで日本の現在の繁栄がつくられたという、これは、たまたまめぐり合わせた日本列島の大地震活動の静穏期に合致していたということであります。つまり、大地震に洗礼されることなく現代日本の国土や社会というのはでき上がっているのでありまして、基本的に地震に脆弱な面を持っております。
 ところが、現在、日本列島はほぼ全域で大地震の活動期に入りつつあるということは、ほとんどの地震学者が共通に考えております。ということは、非常に複雑高度に文明化された国土と社会が言ってみれば人類史上初めて大地震に直撃される、それも決して一つではない、何回か大地震に襲われる、そういうことであります。したがいまして、これは大げさでなくて、人類がまだ見たこともないような、体験したこともないような震災が生ずる可能性が非常にあると思っております。
 地震という言葉と震災という言葉が普通ごっちゃに使われておりますけれども、私が地震と言っておりますのは地下の現象です。地下で岩石が破壊する、これが地震であります。これは自然現象でありまして、よくも悪くもない、日本列島の大自然として淡々と起こっている。我々が日本列島に住むはるか前から地震はそうやって起こっているわけです。
 震災というのは、それに対しまして社会現象であります。地震の激しい揺れに見舞われたところに、我々の社会あるいは文明があるときに生ずる社会の災害でありまして、社会現象だと思います。
 将来、具体的にどういう震災が起こるだろうかと考えてみますと、言ってみれば、広域複合大震災とでもいうべきもの、それから長周期震災、超高層ビル震災とかオイルタンク震災とでもいうべきもの、それからもう一つ、原発震災とでもいうべきものが将来起こり得ると私は考えております。
 それぞれがどういうものかは、近未来の日本列島の地震情勢に即してもう少し御説明したいと思います。
 近未来の日本列島の地震情勢を簡単に言いますと、駿河湾から御前崎沖、遠州灘あたりの非常に広い範囲の地下ですぐ起こってもおかしくないと思われているのが東海巨大地震であります。その西、熊野灘では東南海地震、それから、紀伊水道、四国沖では南海地震という巨大地震がもうそろそろ射程距離に入ってきた。今世紀の半ばごろまでにはほぼ確実に起こるであろうと考えられています。二年ぐらい前ですか、特別措置法もできたわけです。東海地震に関しては、一九七八年に既に大規模地震対策特別措置法ができております。
 場合によりますと、すぐ起こってもおかしくないと思われている東海地震が少し先送りされて、つまり、大地が頑張ってしまってすぐには起こらないで、東南海地震と一緒に、一八五四年に安政東海地震という非常な巨大地震がありましたが、そういうものが起こるかもしれない。その場合には、引き続いて南海地震が起こるかもしれない。一八五四年の場合には、十二月の二十三日に東海地震がありまして、翌日二十四日、わずか三十時間を隔てて南海巨大地震が起こりました。それから、一七〇七年にはこの両者が同時に起こりました。そういうことも今世紀半ばにあるかもしれません。
 一方、首都圏に目を移しますと、首都圏直下の大地震は、これはマグニチュード七クラスの大地震と思われていますが、これは幾つか地下の候補地がありまして、これもいつ起こっても不思議ではないと考えられております。中央防災会議が昨年の十二月に被害想定を発表したところであります。
 しかし、過去の例で言いますと、一八五四年の場合には、安政東海・南海巨大地震が起こったその翌年、一八五五年に安政江戸地震という直下地震が起こって、江戸に大変な被害をもたらしています。将来もそういうことがあり得ると思います。つまり、東海地震が起こってじきに、その年か翌年か二、三年後かわかりませんけれども、首都圏直下で大地震が起こる、そういうこともあり得ると思います。
 さらに、こういう東海・南海巨大地震に先立つ数十年間、内陸でも大地震が幾つか起こる。既に、神戸の地震、それから昨年の新潟県中越地震はこういうものの仲間であっただろうと考えられております。
 その震災、災害の方でありますけれども、東海地震が起こりますと、もし一八五四年と同じような、駿河湾の奥から熊野灘ぐらいまでの地下で非常に広大な断層面が破壊するという巨大地震が起こりますと、まず、阪神大震災と中越震災があちこちで、随所で同時多発するというようなことが起こります。つまり、沼津、三島あたりから尾鷲ぐらいまでの各都市で都市型の震災が起こるわけです。
 それと同時に、山地でも山地災害が起こる。内陸、甲府盆地とか諏訪湖の周辺とか、場合によったら北陸とか、そういうところも非常に激しく揺れまして、そういうところでも激しい災害が生ずると考えられます。
 さらに、この場合には大津波が生ずるわけです。房総半島から尾鷲のあたりまでは大津波です。特に相模湾から尾鷲のあたりまでは非常な大津波で、海岸の地形や何かによっては、あのインド洋の大津波に匹敵するようなことが起こる場所もあるかもしれません。というわけで、これらは広域複合大震災と言ってもいいものだと思います。
 二番目に、巨大地震というものが起こりますと、これは地下で地震の波を出す領域が非常に大きいために、非常にゆったり大きく揺れる長周期の地震波というものを放出します。これはもう物理的に必ず放出します。それが少し離れたところへ伝わると、例えば東京湾の地下構造、伊勢湾の地下構造、それから大阪湾の地下構造、そういうことの影響でさらにそのゆったりした揺れが増幅されて、さらに、その受け皿の関東平野、濃尾平野、大阪平野、そういうところが、ゆっくりとですけれども、非常に激しく大きく揺れます。これを長周期の強震動、強い震動と言います。これは、超高層ビルや大規模なオイルタンクやそれから長大橋、そういうものに大きな影響を与えます。
 超高層ビルが最近の都市再生というような政策によってどんどん建てられておりますけれども、最近の超高層ビルは、制震装置というようなものを備えて揺れを抑えると言われていますけれども、まだ実際の長周期強震動に洗礼されたことはありません。ですから万全かどうかわかりません。まして、例えばバブル期にコストを切り詰めて建てられた超高層マンションなんというのはかなり危険性が高いと思います。
 最近シミュレーションなんかも行われていますが、上の方の階は非常に予想外に大きく揺れまして、家具の滑動、ピアノとか家具とか大きなテレビとかがもうすっと滑って、思いがけなく上に住んでいる人を押しつぶすというようなことで、人的被害も起こり得ます。さらには、致命的な構造的な被害も生ずるでしょうし、また、設備がやられますので、エレベーターが動かない、水が出ない、トイレが使えないということで、上に人は住んでいられない。
 ですから、超高層マンションや何かが林立して、非常に都市空間が有効に活用されていると思っていても、その地震の場合には、結局、住民は全部下へおりてきて、ブルーテントを張って地べたで避難しなければならないということが起こり得ます。さらには、その構造物自体が損傷するかもしれない。
 また、石油コンビナートのオイルタンクなんかも、その長周期の揺れによってオイル火災を起こす。これは、おととしの九月二十六日の十勝沖地震のときに、苫小牧でオイルタンクの火災が発生して俄然問題になりましたけれども、こういうことが起こることはもうずっと前からわかっていることであります。
 これが、超高層ビル震災とかオイルタンク震災と言ってもいいような長周期震災であります。オイルタンクの火災、コンビナートの火災は、火のついた油を乗っけた海水が津波によって市街地に遡上して、市街地に延焼火災を誘発するというようなことも起こるかもしれません。
 三番目の原発震災ということでありますが、これは私が一九九七年につくった言葉ですけれども、東海地震の場合、東海地震の予想震源域という、地下で地震波を放出すると考えられている領域の真上に中部電力の浜岡原子力発電所がありまして、ことしになって五号機が動き始めました。既に四号、大分年を経た四号までも動いているわけです。
 日本の場合五十三基の原子炉が今ありますが、地震には絶対安全だということになっております。それから中部電力も、浜岡の原発は東海地震には絶対耐えられるとおっしゃるわけですけれども、地震学的に見ますと、いろいろ疑問点はあります。想定の地震、あるいは地震の揺れがまだ不十分なのではないかというようなことです。
 アメリカでは、地震というのは原子力発電所にとって一番恐ろしい外的要因であるというふうに考えられています。といいますのは、普通、原発の事故というのは単一要因故障といって、どこか一つが壊れる、その場合は多重防護システムあるいはバックアップシステム、安全装置が働いて大丈夫なようになるというふうにつくられているわけですけれども、地震の場合は複数の要因の故障といって、いろいろなところが震動でやられるわけですから、それらが複合して、多重防護システムが働かなくなるとか安全装置が働かなくなるとかで、それが最悪の場合には、いわゆるシビアアクシデント、過酷事故という、炉心溶融とか核暴走とかいうことにつながりかねないわけであります。
 浜岡原子力発電所も、六百ガルという強い地震の揺れに耐え得るから絶対大丈夫だと中部電力は言っておりましたけれども、ことしの一月二十八日には社長さんが記者会見されまして、念のために千ガルという揺れまで耐えるように耐震補強工事をしますということになりました。ですから、どこまで丈夫にしたら大丈夫なのかということははっきりしているわけではございません。
 万々が一、ここで東海地震によって浜岡原発が大事故を起こしまして、大量の核分裂生成物、炉心にたまっている核分裂生成物が外部に放出されますと、これは、例えば浜岡の三号機が百十万キロワットの発電能力を持っていますけれども、そういう原子炉を一年間運転すると、広島型原爆七百発から千発分ぐらいのいわゆる死の灰が炉心にたまると言われております。そういうものの何%か何十%か、事故によって随分違いますけれども、そういうものが放出されますと、要するにチェルノブイリの原発事故のようなことが起こる。それで、近くに住んでいる住民は急性放射線障害、放射能障害によってすぐ死ぬ。それからやや離れたところでも、パーセンテージが減っていくだけで、そういうことが起こる。
 さらに、放射能雲、死の灰の雲が、御前崎の場合は南西の風が吹いていることが多いんですけれども、その場合には、清水、静岡、沼津、三島、そういうところを通って箱根の山を越えて、神奈川県、それで首都圏にも流れてくる。これは気象条件、風の速さなんかによりますけれども、十二時間ぐらいすると首都圏にもやってくる。それで、雨が降ったりしますと、放射能がその雨粒について降ってくるわけです。
 私が原発震災といいますのは決して地震による原発の事故という単純な意味ではありませんで、仮に、東海地震によって新幹線が脱線、転覆するとか、建物がいっぱい倒れる、燃える、そういうことで一万人の方が亡くなるとします。地震ではないときに、平常時に仮に、万一浜岡で大事故が起こったときに、放射能で近隣住民が千人死ぬとします。それが同時に起こったら、では死者は一万一千人かというと、決してそうではないわけですね。
 放射能から避難しようと思っても、地震の被害で、津波や液状化で道路、橋はずたずた、建物はたくさん倒れて、道路をふさいでいるということで、逃げようにも逃げられない。浜岡の原発事故に対処しようと思っても対処できない。一方、新幹線が脱線、転覆して閉じ込められている、あるいは無数の家屋が倒壊してその中に、まだ生きているけれども閉じ込められている。そういう人たちを、ふだんであれば、まさに神戸のときのように、あのときはちょっと時間がおくれてしまったわけですけれども、それこそ自衛隊やボランティアが駆けつけて救出するということができるわけですけれども、非常に強い放射能があるわけです、襲ってくるわけですから、恐らくそれはできない。まあ、どうなるかわかりません、決死隊が行くのか何かわかりませんけれども。通常の震災による生き埋めの人、救出できる人がかなり見殺しになるんではないか。そうすると、死者が数万人にも十万人にも及ぶわけです。そういうことが東海地方で起こりかねない。
 さらに、東京に目を移しますと、やや長周期の震動で超高層ビルや何かが被害を受けて、大勢の人がブルーテントで地面に避難しているというような、そこへ放射能雲がやってくるわけです。気象条件によっては、かなり東京でも放射能レベルが高いものがやってきます。そういう場合、本来、人々は密閉された建物の中に避難すべきなんでありますが、怖くて避難できないですし、避難していても水も何もないから暮らせないということで、これは大変なことになります。
 それで、大体東京あたり、もっと遠くまで長期避難しなければなりません。急性死亡はしませんけれども、そこにとどまっておりますと体外被曝、体内被曝というものを受けて、長年のうちにはがんで死ぬおそれがある、また子孫に遺伝的な影響を与えるということで、避難しなければいけません。しかし、この膨大な首都圏の人間がどうやって避難するのか。それは大変なことであります。
 そういう首都圏を、例えば翌年、今度東京直下地震が襲う。そうすると、放射能のために本格的な修理もできないでいた、壊れた、損傷した超高層ビルなんというのが、非常なダメージを受けて弱くなっていますから、これが轟音を立てて崩れるというようなことが起こるかもしれない。というわけで、さらに災害は増幅される。そもそも東京は放棄せざるを得ない。首都を喪失するわけです。そこに至るまでの静岡県や神奈川県という国土も、もう長年人が住めない、土地が喪失、国土が喪失される。そもそも水源が汚染されますから水が飲めない、人は暮らせないということになります。これは日本の衰亡に至るであろう。
 大体、東海地震が起こった途端に、世界の国債市場で日本の国債が暴落するとかで、世界経済は混乱しますし大変なことだと思いますが、この原発震災が起これば、これはもう本当に、物理的にも社会的にも日本の衰亡に至りかねないと思うわけです。
 こういうことがすべて同時に起こりますと本当に大変なわけで、これにどう対処したらいいか。これはもう地震防災対策というようなことではしのぎ切れない。中央防災会議が平成十五年の五月に東海地震対策大綱というものを立てまして、例えば、事前に自衛隊がどこへどこの部隊を投入するというような計画をきちんと立てておいて、それに従って、発災した場合の対応を決めるということをやりましたけれども、この浜岡原発震災が起これば、そういうものは吹き飛んでしまうわけです。
 結局、私は、現在の日本の国土とか社会の情勢、非常に地震に弱くなっていて、例えば地方の小さな山村とか地方都市も、地震に襲われたとき、本来はそこが自立して完結して震災後の対応をしなければいけないんですけれども、そういうことができないような状況になっている。ということで、私たちの暮らし方の根本的な変革が必要ではないかと考えています。これは、決して地震とか自然災害に対して受け身、消極的にやむを得ずやるのではなくて、これ以外のあらゆる問題に通じると思います。現在、日本でも世界でも二十一世紀の非常に大きな問題でありますエネルギー、食糧、あるいは廃棄物、環境、そういった問題にすべて通じることである。私の前のお話の地方分権にも通じることだと思います。
 そもそも、日本列島にいる限り、地震と共存する文化というものを確立しなければならない。つまり、従来は自然と対決する文明で、それに対して最新技術でもってバックアップしようという考え方でしたけれども、自然の摂理に逆らわない文明というものを我々はつくっていかなければならないと思います。
 要するに、開発の論理、あるいは効率、集積、利便性の論理、それから東京一極集中、都市集中の論理、そういうものをやはり見直して、保全とか小規模、多極分散、安全と落ちつき、地方自立、国土の自然力と農山漁村の回復といったようなことをキーワードにして根本的な変革が必要であると、地震災害を考えると私は強く思います。
 なお、原子力発電所に関しては、これはいろいろなほかの問題もあるわけですけれども、本当に危険でありまして、浜岡だけではありません。例えば若狭湾に十三基の商業用原発がありますけれども、ここも地震の危険性は高いところであります。そういうことからして、全国の原子力発電所の原発震災のリスクというものをきちんと評価して、その危険度の高いものから順に、段階的に縮小する。必然的に古いものが縮小されることになると思いますので、そういうことを考えない限り、大変なことが起こって、世界が一斉に救援に来てくれて、同情してくれるでしょうけれども、逆に世界じゅうから厳しい非難を浴びるということにもなりかねないわけで、こういうことを急いでやることは日本の責務だろうと思います。
 以上です。どうもありがとうございました。(拍手)
○甘利委員長 ありがとうございました。
 次に、山田公述人にお願いいたします。
○山田公述人 東京学芸大学の山田昌弘でございます。
 お招きいただいてどうもありがとうございます。一週間前まで、こんなところに立って意見を述べさせていただけるとは思ってもいませんでした。
 私は、家族社会学者として、若者の家族の状況やフリーターといったところを調査してまいりました。今、若者は極めて不安定な立場に置かれていることがわかってきました。単に経済的な弱者であるという以上に、将来に対する生活の見通しが立ちにくくなっている人がふえているわけです。つまり、私に言わせれば、将来に希望が持てなくなっている状況にあるわけです。
 私、インタビュー調査をしているときに、あるフリーター男性がいまして、常にフリーターの人には年金払っていますかと聞くんですけれども、大体払っていない。年金掛金を払わない理由として言われたのが、五年後の生活の見通しが立たないのに五十年後の生活の心配ができますかというふうに答えられていたわけです。さらに、世代間の助け合いというふうにこちらが水を向けますと、助けてほしいのはこちらの方なんだ、若者世代なんだというふうに言われたこともあります。中には、年金をもらっている祖父がフリーターの孫の年金掛金を払っているといったような、どう見ても転倒したケースというのが存在してきたわけです。
 さらにまた、ある雑誌で、高学歴フリーターとしてもよい正規の教員になれないオーバードクター、大学非常勤講師だけしかできていない人というのが結構、何万人のレベルでいるわけですけれども、もう年金どころではなくて国民健康保険さえも払えなくなっている、病気になるのは正社員、正規教員等の特権になっているというふうに書かれていました。
 このような状況に陥っている若者というのは決して少数ではありません。少数ではないからこそ、年金掛金未納率というのがどんどんふえていくわけです。たとえ正社員であっても、将来の生活に不安を感じる若者が多くなっています。
 私はもう四十七歳で余り若いとは言えないんですけれども、若者を調査する中で、若者の立場を代弁いたしまして、今、若者がどのような状況に陥っているか、何を求めているか、どのような対策が必要であるかという点について意見を述べさせていただきたいと思います。
 私は、一九九八年という年が、日本社会が不安定化し始めた年だと思っています。なぜ九八年かというと、中高年男性の自殺が突然増加してしまいまして、自殺者数が、九七年ぐらいまでは二万人台だったものが九八年に突如三万人台にふえて、それから高どまりをしている。ほかのデータを見てみますと、児童虐待も急増していますし、今話題になっている少年凶悪犯も、九六年ぐらいまでは極めて日本というのは犯罪的に安全な社会だったんですけれども、九七、八年ごろから再び増加が開始しています。強制わいせつ、不登校とか急増していますし、さらに、学力低下と言われるような学習時間の減少というものも九〇年代後半に起きています。九五、六年まではきちんと勉強して学力をつけていたんですけれども、九〇年代後半から勉強しない小中学生がふえてきているわけです。
 そして、若者の失業率、フリーター、引きこもり、ニート、それは昔からこういう人がいたというふうに言われるかもしれませんが、一口に、フリーター二百万人、引きこもり五十万人以上、ニートも五十万人。私がつくった言葉ですが、いわゆる親と同居する未婚者、パラサイトシングルが今一千二百万人のレベルで存在しています。
 これはどうして起こったかというのを考えてみますと、いわゆるニューエコノミーというものが日本に浸透してきて、そのマイナスの側面が一挙に噴出してきた。もちろんニューエコノミーというのは、IT化とかグローバル化とか言われるように、社会が便利になるというプラスの面もあるんですけれども、逆に生活が不安定になるというマイナスの面がこの時期に噴出してきた。つまり、生活の将来の見通しが立たなくなって希望を失う人、つまり一生懸命努力した、もしくはしたいと思うんだけれども、それが報われるかどうかわからないといったような人がふえてきた結果生じた現象だと思っています。これは日本だけではなくて、フリーターとかニートとか、そういう問題に関しては先進国であれば全世界的に起きている問題なんですけれども、日本では特に若者に大きな影響が起きたというふうに考えています。
 一枚めくっていただくと、二十五歳から三十四歳までの若者を対象に、厚生労働省科学研究費の補助金を受けまして私が行った調査の中からデータを引用しました。将来日本社会は経済的にどうなるか、「今以上に豊かになる」と答えた、平均三十ぐらいなんですけれども、三十前後の若者はわずか四%しかいない。「現在と同じような豊かさが維持される」というのは三一・五%、いや、日本社会は今後、経済的に「今より豊かでなくなっている」と答える三十前後の若者がもう三人に二人ぐらいに達しています。
 一つ飛びまして、あなた自身はというふうに質問したとしても、日本社会よりはいいんですけれども、「今以上に豊かになる」と思っている若者はわずか一四・二%、「今より豊かでなくなっている」と感じている者が五人に二人になっています。
 これはもう小学生、中学生まで及んでいまして、これは私がかかわっている東京都生活文化局の調査を手伝って行ったものなんですけれども、小学校五年生で、あなたが大人になるころ、日本社会の暮らしは今よりよくなる、「そう思う」と「どちらかというとそう思う」と合わせても四九%にしかならない。中学校二年生になると、よくなると思う人はもう二五%ぐらいで、七割五分ぐらいの人は、自分が大人になったころ、日本社会はよくならないというふうに答えているわけです。
 先ほども言いましたけれども、ニューエコノミーというのは、我々の生活をますます便利にするというプラスの側面、さらに、今まで活躍の機会を与えられてこなかった人に活躍の場が与えられるというプラスの側面があるんですけれども、逆に、職業を不安定化させ、生活の見通しが立たなくなるというマイナスの側面があります。
 時間がないので詳しくは述べませんが、将来を約束された中核的、専門的労働者といわゆる単純労働者というものへの分化が進行しています。いわゆる物をつくる経済ではなくて情報をつくる経済、サービスをつくる経済というのは、商品やシステムのコピーが容易で装置が不要ですから、コピーのもとをうまくつくれる人はお金がたくさんもうかるんですけれども、コピーをする人とかコピーを配る人というのは、非常勤というか熟練は要らないわけです。コンビニとかファストフード、スーパーでわかるように、マニュアルのもとをつくる人、システムを構築する人は将来の見通しがあるんですけれども、そこでマニュアルどおりに働く人というのは、熟練の機会がなく、そのまま過ごしていくわけです。
 戦後の安定社会というものは、多分、だれでも努力が報われることが保証された社会としてあったと思います。つまり、教育して学校を出れば、その学校に見合った職業につけた。仕事をすればそこで認められて徐々に昇進して収入が上がっていった。生活も、一生懸命頑張れば生活水準もどんどん向上していった。つまり、あらゆる若者にとって戦後の社会というのは努力が報われるようになっていたので、希望を持って学校で勉強して、仕事に励んで子供を生み育てられる。安心して、将来の生活を心配することなく子供を生み育てることができたわけです。そして、若者は途切れなく、つまり学校を出たらすぐ、ある企業集団に入ったり、自営業だったら自営業の後継ぎとして業界団体に入ったり、青年団に入ったりというような形で、どこかの集団に属して、そこで自分が評価される場というものがあらゆる若者に存在していたわけです。
 しかし今は、フリーターやニートとか、別にすべての自営業に将来がないというわけではなくて、今シャッター通りとかありますので、今までどおりの商売をしていたのでは将来がなかなか見えない自営業の後継ぎといった人が、まず夢があっても希望がない状態に置かれている。つまり、努力が報われるかどうか保証がない。つまり、フリーターを続けていてもその先が見えなかったり、評価されなかったりする。
 さらに、バトルロワイヤルというふうに、私は教育のバトルロワイヤル、職業のバトルロワイヤルというふうに名づけたんですけれども、つまり、夢を持てばいいだろうというふうに言われるかもしれませんが、全員がかなえられないことがわかっている夢というのはやはり問題があるわけです。夢が実現できない人は、では結果的に実現できなかった人は、それは自己責任と言われて、もう知らないよといって放置される。でも現実には、ポストが少ないというのも変なんですけれども、すべての人が希望どおりの職業につけるわけでもないし、結婚ができるわけでもないという状況に陥っているわけです。
 そしてさらに、ライフコースの途中で所属集団がなくなる空白期間というものが存在し始めたわけです。つまり、学校と職業が接続がなくなって、仲間から評価される場所が存在しなくなっている、こういう状態に陥る人がふえ始めているわけです。
 一番最初に書きましたように、希望とは、努力が報われると感じるときに生じて、努力してもしなくてもむだだと思うと絶望感に支配されるわけです。つまり、能力や魅力がある活躍できる人、コミュニケーション能力とかがある人というのは大丈夫なんですけれども、能力や魅力がそこそこであるという者が、努力をしたら確実に評価されるという希望がなかなか持ちにくい社会環境に置かれています。
 希望が持てない者、社会から見捨てられた者、そして社会のつながりを失った者が、例えばある者は、私がリスクからの逃走と名づけているように、パラサイトフリーター、とりあえず親のもとにいれば生活できるから何かいいことがあるまで待っていようとか、就職するのが怖いとか、引きこもってしまうとか、つまり、親にパラサイトして、親に基本的な生活を見てもらって、実社会で努力が報われない体験をすることを回避している状況に陥っている。
 さらに、享楽的行動、つまり現実の絶望を忘れさせてくれるものにふけるといったようなことが起きたり、さらには、やけ型犯罪、つまり、自分の将来がもうどうでもいいというふうになった人は、将来幸福になる見通しがない若者が不幸の道連れという形で恨んでしまうということが起きてしまうんではないか。さらには、将来不安というのは少子化に結びついておりまして、私も先ほどの調査の中で、将来の生活が豊かにならないと回答する若者ほど、子供をこれ以上持てないと回答する人がふえていっています。
 現在は、先ほど申し上げたように、全世界で不安定化する若者の問題というのは起こっています。ニートというのもイギリスで問題化されたわけですけれども。今はとりあえず、オールドエコノミー、つまり年功序列、終身雇用、生活が向上していった親が抱えている、抱えられているとも言えますけれども、抱えているので、大きな社会問題にならなかったわけです。しかし、十年後、二十年後、親が若者を支えられなくなったときに、若者の夢と生活が破綻したときに混乱状態に陥ることは目に見えているわけです。つまり、ここ十年、二十年の間に対策をしておかなければいろいろなことが起こるだろう。
 あるフリーターの人、夢見るフリーター、三十過ぎのバンドマンのフリーターの人にインタビューしたとき、十年後どうしていますかという質問をしたときに、バンドで食えているか、食えていなかったら死んでいるというふうに答えていました。あと、二十代後半で毎日バッティングセンターに通いながら、野球選手になりたいという夢を見てプロテストに落ち続けている、それでバイトをしている人というのは、もう何も将来、これをやり続けるしかない。まだ彼らはとりあえず五十代、六十代の親の家に住んでいるからそのような状態でも生活していけるわけです。でも、二年前に長野県で、親が自宅で亡くなったんだけれども、それを隠して年金をもらい続けて生活していたという中高年が死体遺棄罪で逮捕されましたけれども、将来そういうことが起こりかねないわけです。
 そこで、ただ、今何ができるか、すべきなのかというところで、速やかな総合対策ということをお願いしたいんですけれども、現実を放置しておけば、使い捨てられると思う若者が大量発生して、それが十年後、二十年後、親が支えられなくなったときにほうり出されることになって、社会保障の負担がかさむと思います。といってラッダイト運動、昔に戻れ、それは日本社会を停滞させます。つまり、学卒後のすべての男性が職場で終身雇用、年功序列を維持できる経済など、今の社会に戻れるわけはないわけです。
 そのために、すべての若者が努力が報われることを実感、保証できる場を再建する必要があるのではないでしょうか。つまり、最低限の生活保障ということではなくて、何か努力してやればそれが報われるんだということ。幾らチャンスがあるといっても、何度もチャンスだ、チャンスがあると言われて、もう全部だめで、もう一回やり直せというのでもう嫌々しているという若者にも私は会ったことがあります。教育の再編、教育訓練を受けたら必ず職業に結びつくルートの再建とかキャリアカウンセリングといったようなものが必要になってくると思います。短時間正社員というのが、今の若者が一番求めているものなわけです。
 もう時間がありませんので、最後に述べたいのは、戦力の逐次投入をしてはならないと思います。
 私は、予算書を詳しく分析するわけにはいかないんですけれども、確かに政府の中では危機感を持ってニート対策、フリーター対策、職業カウンセリングといったものをやられているということは存じ上げていますけれども、ガダルカナル、二百三高地の教訓。私もちょっと戦争オタクでして、つまり、そういうのが、戦後六十年たってもう御存じない方も多いかと思いますが、戦力を逐次投入しても余り効果がない、総合的にやるべきだというのと、ライフコースの継ぎ目で生じている問題、つまり、教育で訓練をつければいい、仕事につかせればいい、といって経済界がそれを求めていなきゃだめなわけですから、省庁にまたがった総合的な対策が必要だと思っております。
 少々長くなりましたが、どうもありがとうございました。(拍手)
○甘利委員長 ありがとうございました。
……中略……
○佐々木(憲)委員 日本共産党の佐々木憲昭でございます。
 公述人の皆さんの貴重な御意見をお聞かせいただきまして、本当にありがとうございます。
 お一人ずつお聞きをしていきますが、まず、井堀公述人にお聞きをいたします。
 定率減税の縮減というのが大変大きな問題になっておりまして、1999年、平成年に実施をされた際は、所得税の定率減税と最高税率の引き下げ、さらには法人税の減税、こういう三点セットで行われたわけであります。その理由は、経済的な大変厳しい状況を克服していくためということでありました。
 最近、この経済状況をどう見るかというのは非常に微妙なところでございますが、ただ所得税の定率減税の縮減だけが実行されていく、ほかの二つの減税の部分はどのように検討されたのかということなど、私ども随分疑問に思いまして、質問をさせていただいたりしているわけであります。
 井堀公述人は、この三点セットで実行された減税のうち、法人税それから所得税の最高税率の引き下げの問題、これもやはり平等に考えて、戻すならもとに戻すべきだと私は思いますけれども、どのようにお考えでしょうか。
○井堀公述人(東京大学大学院経済学研究科教授) お答えしたいと思います。
 90年代後半の減税の一つの目的は、マクロの景気の不安定性に対する一つのカンフル剤としての効果を期待したわけですね。そのときの状況と今、認識は人によって違うかもしれませんが、90年代後半に比べれば、相当マクロ経済環境もよくなっていますので、そういったカンフル剤的な減税政策はできることならやめにしたい。しかも、私、最初にお話ししましたように、中長期的に日本の財政状況は非常に厳しいわけですから、必要最小限の増税に少しずつ踏み出すべきだろう。
 そのときの増税の対象として何が適当か、そういう問題だろうと思うのですが、今御指摘いただいた三つの選択肢の中で、所得税の定率減税の縮小というのは、ある意味で所得税を払っているすべての方に定率減税というのはきいてくるわけですから、上限25万円はありますけれども、すべての所得税を払っている納税者の方が広く薄く、もちろん、高額所得者ほど定率減税のメリットは大きいわけですから、逆にそれが廃止になるときのデメリットも大きいわけですけれども、ある意味で納税者が広く薄く負担するような、そういう増税策になります。
 それに対して、最高税率の引き上げあるいは引き下げというのは、御存じのように最高税率にかかる人というのはほとんどいませんので、余り実際の増収策としてはそれほどの効果もないわけですし、量的に日本の財政状況を税収面からきちんと確保しようという面では、最高税率を上げてもほとんど何も効果はない。それに比べて、所得税の定率減税の廃止の方は、広く薄くという意味できちんとした効果が出てくる。
 それから法人税の方は、法人税を引き上げますと、確かに短期的には、景気のいいときには法人税収上がりますけれども、ただ、法人は個人と違いまして、税率に対するいろいろな経済活動の悪影響が非常に大きいと思いますので、私は、法人税はできることであればむしろ下げる方向で、要するに、財政状況は厳しいんだけれども法人税はなるべく上げない形で税収を確保し、国民が消費税なり所得税を広く薄く負担する形でやるべきだろうと思います。
 問題は、そのときに、定率減税を縮減するとそれがマクロ経済に悪い影響を与える可能性があるんじゃないか、そういう御指摘だと思うのですけれども、これは確かに増税ですから、増税がマクロ経済をあるいは個人消費を刺激するということは余り考えられませんから、定性的には、増税すればそこそこの悪影響は避けられないと思います。
 ただ、問題はその程度問題でして、要するに、定率減税を縮減したとしても、そこの財源で公共事業をふやすわけではありませんので、政府がむだな歳出をふやすために増税するのとは違いますので、要するに、所得税がふえてもその分はきちんとこれまでの借金の返済に回るんだということであれば、いずれ何らかの形で増税は避けられないわけですから、それがある意味では先取りするという意味では、それほど極端なマクロ経済への抑制効果はないんじゃないかと思います。
 逆に言いますと、90年代後半に定率減税をして、所得税を減税したことによってどれほど民間消費が刺激されたのかというのを90年代後半のデータで見てみても、それほど大きな効果がなかったわけですね。ということは、逆の形で増税しても、それほど悪影響もないんじゃないかと思います。
 そういった意味では、総合的に判断すると、定率減税の縮減というのは、必要最小限の増税をやらざるを得ないという日本の現在の財政状況を考えると、やむを得ない増税ではないかというのが私の判断です。
○佐々木(憲)委員 私どもの見解とはまだ大分違いますが、きょうはここで論争することではございませんので、御意見として伺っておきます。
 さて、それでは梶原公述人にお伺いします。
 三位一体改革、これは本来、国のひもつき補助金を減らして税源を地方に移譲する、そういうことによって地方自治体の自主性を高めていくというのが姿だと思うんですが、実際には、国庫補助負担金と地方交付税の削減がかなり厳しく行われる、しかし税源移譲はなかなか十分ではないというようなことで、自治体財政が圧迫されていくのではないかという懸念を私たちは持っております。
 先ほど60点という点数をおつけになりましたが、この40点分というのはどういう懸念からそのような判断をされたのか。また、今私が申し上げました財政的な面からいって、プラスマイナス、どのようなお感じでおられるか。この点をお聞きしたいと思います。
○梶原公述人(前岐阜県知事・前全国知事会長) 私ども、骨太の方針に沿って、3兆円の税源移譲に相当する補助金、負担金の改革案を出してくれ、こういう御要請にこたえて地方6団体としてまとめた案、これを基準に考えていきますと、例えば補助金、負担金の廃止項目が少ないとか、いろいろなそういうマイナス、都道府県側から見ると、例えば国民健康保険の関係が突如として入ってくるとか、生活保護の補助率の引き下げとか、これは別に決まったわけじゃございませんけれども、そういう案が提示されるとか、そういうようないろいろの、我々の案から考えた場合のマイナスを考慮するとおおむねそういうような評価になる、こういうことでございまして、厳密に何点何点という計算をしたわけじゃございませんけれども、そういうことでございます。
○佐々木(憲)委員 週刊東洋経済の昨年の9月25日号で梶原さんのインタビューが載っておりまして、大変おもしろく読ませていただきました。この中で、こういうことを言われているんです。「今、歯科医師連の問題が表ざたになっていますが、明治時代の中央集権構造というものの必然的な結果でしょう。」というふうにおっしゃっているんですね。
 これはどういう考え方なのか、率直なところをお聞かせいただきたいと思います。
○梶原公述人(前岐阜県知事・前全国知事会長) 一般論として、権力、権限、財源が一カ所に集中するということはいろいろな問題点をはらむということでございまして、政と官と業というような関係がブラックボックスに化するおそれがあるという意味で申し上げたわけでございます。
○佐々木(憲)委員 石橋公述人にお聞きをいたします。
 日本は大変な震災の可能性がある、大きな地震が起きる可能性があるということでありますが、私は、特に浜岡原発の震災問題というのは非常に気になるわけでありまして、これは想定震源域の直上、上にあるということですが、現在稼働中なんですよね。
 地震というものはいつ起こるか、短期的には非常に予想は難しいと思うんですけれども、こういう状況の中で、ほかにももちろん原発というものが稼働しているわけですが、特にこういう地域にある原発は、一度とめてきちっと点検をする、それで本当に大丈夫なのかということを確認する作業を急ぐべきだと私は思うんですが、公述人はどのようにお考えでしょうか。
○石橋公述人(神戸大学都市安全研究センター教授) お答えいたします。
 基本的にはおっしゃるとおりだと思います。それがごく正常な感覚であろうと思います。
 ですが、中部電力も1月28日の発表で、結局、実質的に、1号機、2号機、3、4もそうです、五号機もそうですが、耐震補強をする、そのためにはとりあえず2.3年はとめるということでありますが、これを、そういう何かとりあえずではなくて、きちんと、今おっしゃったような理由によって、とめて点検する必要があると思います。
 一方で、原子力安全委員会の耐震指針検討分科会というところで日本の原発の全般的な耐震設計審査指針の見直しを行っておりますので、私もその委員を務めておりますけれども、そういうところできっちりした結論を出して、浜岡も含めてバックチェックというものもきちんとすべきだろうと思っております。
○佐々木(憲)委員 山田公述人に伺います。
 先ほどのお話、大変興味深く聞かせていただきました。若者が将来に希望が持てない状況というものがやはり大きく広がっていると思うんですが、夢が実現できない若者は、これは自己責任だということで、それが放置されるとかあるいは就職になかなかつながらない。
 そういう場合、親も社会の変化に対応できていない、認識できていないということもおっしゃいましたが、やはり社会の側の、例えば雇用する側、具体的に言いますと企業ですね。それが最近は、リストラというのは当然のような風潮になっておりまして、なかなか安定した雇用の責任を果たしていないのではないかと私は思います。
 その点で、企業の社会的な責任、これはOECDなどでは大いに議論されているところですけれども、この点をきちっと、日本の場合も企業に対して責任があるんだよということを認識していただくことが必要ではないかと思うんですが、どのようにお考えでしょうか。
○山田公述人(東京学芸大学教育学部教授) 私は、むしろ逆に、企業に雇用の責任をすべて押しつけられない時代になってきたんだと思います。
 物づくり経済というのは、長期的に人を雇って熟練させることが企業にとって最大のいい行動だったんですけれども、大企業はともかく、私、企業経営者、特に中小企業経営者にインタビューしてきまして、今の時代に正規雇用で全部抱えていたら、グローバル化の中でもうつぶれてしまうというふうに言われて、なかなか、顔を知っているから、若い人にちょっと涙をのんでもらうような形になっています。つまり、すべての企業が体力のある大企業ならともかく、あらゆる企業があって、かつ、いろいろ事業を展開していかなければ、このグローバル化した、IT化した時代を乗り切れません。
 だから、私はむしろ、企業の社会的責任という場合は、たくさんもうけていただいて、税金なり寄附なりで、それで若者対策に回すという形で貢献していただきたい。非常勤なら非常勤でもいいんですけれども、それを育てて、もちろん内部で育てるという形も必要ですけれども、内部、外部で育てるための資金を提供するという形で社会的責任を果たしてもらいたいというふうに私は思っております。
○佐々木(憲)委員 ありがとうございました。

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