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奮戦記

【14.08.03】全国高校速記競技大会に招かれ挨拶

   全国高等学校速記競技大会に招かれ、挨拶をしました。その挨拶で、私の半世紀前の体験も紹介し、参加者を激励しました。

   私は、52年も前のことですが、函館商業高校の速記部に所属していました。――放課後には毎日、速記部のメンバーとともに練習に励み、ときには休日も学校に出掛けて特訓することもありました。そのかいあって、2年生の時(1962年)、アマチュアの速記検定試験で最高級の特級に合格し、その年の8月、東京で開かれた全国高校速記競技大会(会場は東洋大学講堂)に出場することになりました。速記部の数人のメンバーとともに参加することができたのです。

 当時は、函館に空港がありませんでしたから、青函連絡船に乗って青森で降り、青森からは汽車(蒸気機関車)に揺られて東京に行ったものです。エアコンなどありませんから、列車の窓は開け放しです。そうすると、蒸気機関車のススで顔が真っ黒になって東京についたことを覚えています。

 東大の近くに秀英館という古い旅館があり、そこに全国から大会にやってきた高校速記部のメンバーが宿泊しました。その旅館の玄関には、「歓迎 中根式全国速記大会出場校御宿舎」と書かれていました。そこで、岡山商業高校をはじめ各地の速記部メンバーと交流があったことを記憶しています。

 大会では、準々決勝を勝ち抜き、「300字1分朗読」(300字を1分間で朗読する問題を速記して正確に反訳する競技)の準決勝に出場しました。ミス3点以内なら決勝戦に出場できる基準でしたが、私は惜しくもミス4点で敗退でした。……懐かしい青春の思い出です。

 いま、衆議院では本会議と予算委員会で速記者が記録をとっています。今年5月25日付「読売新聞」には「政(まつりごと)ひと――国会速記者」という特集が組まれました。見出しは「記録の番人、機械及ばず。驚異の分速360字」。「衆院本会議が開会すると、速記者の…右手が精密機械のように動き始めた」と描写されています。

 日本で議会が始まったのは1890年の第1回帝国議会からですが、すでに速記による議事録の作成がおこなわれています。「国会開設時からの議事録が残っているのは、先進国では日本だけ」(同)だそうです。
 政治の世界では、時には激しい論争がおこなわれたり、議場が混乱して発言者の声が聞き取れない場合もあります。しかし発言が、会議録に残らなければ意味がありません。でも速記者は「機械と違い、私たちは発言者の口元を見ながら記録できる」(丸山充世さん)といいます(同)。すごいですね。

 私も質疑のさい、思わず固有名詞を間違ったり、違う数字を言ってしまうことがあります。そんなときは、記録部から「このように言ってますが、事実はこうではありませんか」と指摘されることがあります。記録部の方々は、実に博識です。

 いまでは機械化がすすみ、発言を自動的に文字に変換する「音声認識システム」が導入されるようになっていますが、機械だけでは完全に正確な文字に変換できません。やはり、最後は人間がチェックすることにより、正確な記録となるのです。――国会の「記録部」は、まさに「記録の番人」です。

   中根式速記法が発表されてから、今年で100周年になります。それを記念して優勝旗が新しくなりした。中根康雄氏とご一緒に。「感激」の文字は、先代の中根正雄氏が大好きな言葉だったそうです。

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