奮戦記
【14.02.20】今日はプロレタリア作家・小林 多喜二の命日
今日2月20日は、『蟹工船』で有名な日本のプロレタリア文学の代表的な作家・小説家である小林 多喜二の命日です。
小林多喜二は、1903年(明治36年)12月1日に秋田県北秋田郡下川沿村(現大館市)生まれました。私の母校、小樽商科大学の前身である小樽高等商業学校は、多喜二が学んだ学校です。
多喜二は、親に楽をさせたいと北海道拓殖銀行(拓銀)小樽支店の銀行員になりましたが、小説を書き続けました。弾圧を受けた人々からの取材にもとづいて描いた小説『1928年3月15日』は、特高警察の残虐性を徹底的に暴露した小説でした。オホーツク海で家畜の様にこき使われる労働者の実態を告発した『蟹工船』を発表したのは、26歳の時でした。
天皇を頂点とする帝国軍隊を批判したため不敬罪に問われ、『蟹工船』は『3月15日』とともに発禁処分を受けたのです。銀行からも解雇通知を受け取ることになりました。
日本共産党の活動家でもあった小林多喜二は、1933年(昭和8年)2月20日、詩人の今村恒夫とともに東京・赤坂福吉町の街頭で検挙され、築地署で拷問を受け、逮捕からわずか7時間後に虐殺されたのです。
築地警察署内の凄惨な取調べについては、今村氏から話を聞いた江口渙氏が戦後発表した「作家小林多喜二の死」という文章を、手塚英孝が『小林多喜二』で紹介しています。
三浦綾子さんの小説『母』は、多喜二のお母さんである小林セキさんを描いています。実際に、本人からの取材をもとに書かれたものです。
多喜二のお母さんは、変わり果てた息子の身体を抱いてこう叫びました。「嗚呼、痛ましい…よくも人の大事な息子を、こんなになぶり殺しにできたもんだ」。そして傷痕を撫でさすりながら「どこがせつなかった?どこがせつなかった?」と泣き、やがて涙は慟哭となりました。
「ほれっ! 多喜二! もう一度立って見せねか! みんなのために、もう一度立って見せねか!」と。
戦前でも、拷問は禁止されており、虐殺に関与した特高警察官は殺人罪により「死刑又は無期懲役」で罰せられて当然でした。しかし、警察も検察も報道もグルになってこれを隠し、逆に、天皇は、虐殺の主犯格である安倍警視庁特高部長、配下で直接の下手人である毛利特高課長、中川、山県両警部らに叙勲を与え、新聞は「赤禍撲滅の勇士へ叙勲・賜杯の御沙汰」と報じたのです。
1976年1月30日に、日本共産党の不破哲三書記局長(当時)が国会で追及しましたが、政府は拷問の事実を認めず、「答弁いたしたくない」(稲葉法相)と開き直りました。この立場は、いまの政府に引き継がれています。(2007年2月17日「しんぶん赤旗」などを参照)