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奮戦記

【10.10.10】儀我壮一郎先生を偲ぶ会に出席

   午後、儀我壮一郎先生を偲ぶ会に出席しました。各界の方々から、たくさんのお言葉がありました。

 儀我先生にはじめてお会いしたのは、私が22歳の春のことでした。いまから42年も前になります。1968年4月、北海道の小樽商科大学から大阪市立大学大学院・経営学研究科へ進み、儀我ゼミに所属することになりました。
 先生は、当時49歳。まことにダンディーで爽やかな教授でした。私は、大学を卒業して北海道から大阪に出てきたばかりで、右も左も分からない若者でしたから、先生にはたいへんご心配をおかけしたのではないかと思います。

 恵己夫人  儀我壮一郎教授の研究分野の広さは、まことに驚くべきものでした。
<写真は恵己夫人>
 中国の社会主義企業から国家独占資本主義、多国籍企業、製薬資本、歴史学など…、実に多岐にわたっていました。先生自身が、このようにたいへん幅の広い研究者でしたから、弟子の私たちは、研究テーマの選択はきわめて自由でした。

 その状況に胡座をかいて、私は、大学院に入って研究テーマもまともに設定できず、迷いに迷っておりました。しかし儀我先生は、まことに懐深く、温かく見守ってくれたものです。このときのさまざまな経験が、その後の私の活動の基礎を築いてくれたと思っております。

   当時、70年安保で「全共闘」の大学占拠が大流行でした。
<ゼミの同輩、上田慧氏と佐々木佳代氏>
 ご多分に漏れず、大阪市大でも時計台を全共闘が占拠するという事件がありました。大学のなかでゼミをおこなうことが不可能になったため、儀我ゼミはしばらくの間、大阪市の労働会館でゼミをおこなうことを余儀なくされました。
 しかし先生は、その困難な状況を受け入れながら、淡々と教育者としての仕事をこなしていたのが印象的でした。

   私は、在学中の1970年に、たまたま日本共産党の「学生新聞」の懸賞論文に応募し、科学技術研究と大学問題をあつかった論文で入選しました。
<写真は日野原重明氏>
 また、日本共産党大阪府委員会の「大阪民報」に、関西電力の値上げ論を批判する論文を発表するなど、実践に役立つ政策問題に大いに興味を持つようになりました。
 1970年には、経営学修士となり、1973年から日本共産党の経済政策委員会に勤務することになりました。党本部の仕事をしながら、月に一回は儀我ゼミに出席し、1974年3月に博士課程の単位を取得、大阪市大大学院を退学しました。

   それから約10年たった1983年、私は参議院選挙で日本共産党の比例代表候補となりました。そのとき儀我先生は、私のパンフに「推薦文」を書いていただくことを快く引き受けてくださいました。
 ──「佐々木憲昭さんは、小林多喜二とゆかりの深い小樽商大卒業後、大阪市立大学大学院経営学研究科で、日本とアジアの産業と経済について高度の研究をつまれ、私の数多い大学院ゼミ生のなかでも最優秀生のひとりであった。国政の場でますますご活躍されることを心から期待して推薦の言葉とする」と。

   過分なお言葉をいただいたことを、ほんとうにありがたく思っております。このパンフには、私と同様、北海道から大阪に出てきて、ともに学んだ上田慧教授にも推薦文を寄せていただきました。心より感謝しております。

 これからは、もう儀我先生にお会いできないと思うと、ほんとうに寂しくつらい思いです。しかし、平和な時代がくることを願って活躍されてきた先生の遺志を受け継ぎ、これからも力いっぱいがんばっていく決意でおります。

 

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