アドレス(URL)を変更していますのでブックマークされている方は変更してください。
<< ホームへ戻る

平和・憲法

2004年11月11日 第161回 臨時国会 憲法調査会≪公聴会≫ 【262】 - 質問

「国際貢献も環境権も現憲法でこそできる」憲法調査会中央公聴会で佐々木議員質問

 2004年11月11日憲法調査会の中央公聴会で、佐々木憲昭議員は、浅岡美恵氏(弁護士・気候ネットワーク)、植松治雄氏(日本医師会会長)、暉峻淑子氏(埼玉大学名誉教授)の3人の公述人に質問しました。

 最初に、それぞれの立場からの意見陳述がありました。
 浅岡氏は、現在の憲法は個人の尊重や幸福追求権を定めた13条、国民の生存権と国の責任を定めた25条など包括的であり先見性があると強調。「環境権実現のためには憲法改正は必要なく、具体的立法こそが求められる」と主張し、「戦争は最悪の環境破壊であり環境権も9条改正で影響を受ける」と9条改悪に反対しました。
 植松氏は、人命が軽く扱われていることへの懸念を述べ、医療現場での人権の尊重について指摘し、「国民皆保険制度は今後も堅持すべきだ」と主張しました。また、医師会としてイラク戦争の即時終結を求める決議をあげたことにふれ、「医療者の立場から戦争や武力行使に断固反対する」と述べました。
 暉峻氏は、憲法の様々な人権規定は戦争を放棄した9条の規定と表裏一体だと指摘し、自国で人権の保障が行き届いてはじめて国際貢献ができると述べました。また、「勝ち組」「負け組み」と呼ばれ人権が守られていない状況が進んでいる背景には、人権に逆行する軍事大国化の流れがあると述べ、競争による子ども達の「序列化」や「愛国心」の強制・管理教育の強化は、9条改悪の思想とつながっていると批判しました。

 その後、各党の代表からの質疑がおこなわれ、日本共産党から佐々木憲昭議員が質問しました。
 暉峻氏に対して、佐々木議員が、「イラク戦争は、大義のない不法な戦争だったのに、アメリカは反省もなくファルージャへの無差別攻撃をおこなっている。イラク人を殺戮して自由や民主主義がもたらされるのか」質問すると、暉峻氏はNGO活動の経験に触れながら「軍隊と一緒に人道支援はできない」と述べ、9条改悪の狙いは集団的自衛権の行使であると指摘しました。
 植松氏に対しては、「三位一体改革に関する抗議文」で、「憲法25条にもとづいて国民の健康・生命を守るという国の責任を放棄するもの重大な問題である」と指摘している点を確認しました。
 浅岡氏には、「憲法というのは、ほんらい人権を保障し国家権力の行使を制限する授権規範だというのが近代立憲主義の基本だと思うがどうか」と質問すると、浅岡氏は「私も、ただいま御指摘いただきましたように考えております」と答えました。

議事録

【公述人の意見開陳部分と佐々木憲昭議員の質問部分】
○浅岡美恵 公述人(気候ネットワーク代表) 本日は、憲法問題につきまして意見を述べる機会をお与えいただきまして、ありがとうございます。
 私は、弁護士といたしまして、環境や消費者に係る被害者救済にかかわり、また、近年、地球温暖化の抑止に取り組むNGOの活動に関与してまいりました。その限られた経験からではございますが、特に基本的人権に関する部分を中心といたしまして、その実現と発展を願いまして、意見を申し上げたいと思います。
 申し上げるまでもなく、憲法制定以降60年の経過の中におきまして、我が国及び世界の社会経済状況は大きく変化してまいりました。その過程で、かつては社会的に十分認識されてこなかった幾多の人権問題が浮上いたしまして、権利として確定されてまいりました。
 例えば、消費者の権利について見ますと、被害が多発しております中で、今年、16年に通常国会で、安全が確保され、自主的かつ合理的な選択の機会が確保され、情報及び教育の機会が提供され、意見が消費者政策に反映され、被害が適切かつ迅速に救済されることということが、消費者の権利といたしまして基本法に明記されました。
 こうした消費者の権利と申しますものは、米国のケネディ教書によります権利宣言を受けまして、我が国におきましても60年代後半から提唱されてまいったものでございますが、今回の基本法改正におきまして一部導入され、消費者団体を権利主体として位置づけていないことなど、なお若干の不十分な点を残しております。立法府におかれましては、これらの権利の具体化をさらにお願いしたいと思っております。
 女性問題につきましても、95年に北京で開かれました世界女性会議のテーマは、女性問題は人権問題であるということでございました。女性であることを理由とする不合理な差別問題は、今も我が国の重要な問題でありますけれども、特に90年来、人としての尊厳あるいは自己決定という観点から女性の人権が議論されまして、セクシュアルハラスメントが違法として定着するなど、立法措置がなされてきております。
 また、知る権利の具体化としての意思決定に不可欠であります情報への自由なアクセス権が国民の権利として情報公開法に盛り込まれました。今年、その見直し中であります。
 他方で、プライバシー権が判例上も認められ、また、このプライバシー権は、私生活をみだりに公開されない権利というものから、自己に関する情報をコントロールする権利ととらえられてきております。今日、高度情報化社会における個人情報保護の効果的な仕組みが懸案となっておるところでございます。
 私が弁護士として仕事をしてまいりました30年余のこの歳月は、社会経済の変化を受けまして、こうした新しい権利が法的に裁判所で整理され、あわせて立法及び行政上の対応がなされてきた時期でございまして、社会や経済のありようと法との関係というものを法律実務を通しまして感銘深く見てまいったところでございます。
 時代の変化は加速的でありまして、国際化の影響もより大きくなってまいります。今後とも新たな人権問題が認識されてくることと思います。こうして見ますと、消費者の権利とか環境権やプライバシー、知る権利等々は、憲法に明文がないという意味では新しい人権と言えますけれども、日本の社会においては既に定着した人権、あるいはその途上にあると言えるのではないかと思います。このような立法ないし行政措置が憲法違反であるというような主張は聞いたことがございません。
 これら新しい人権とも申すべき権利の憲法上の根拠と申しますと、主として憲法13条に見出されております。すべて国民は、個人として尊重される、生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利は、公共の福祉に反しない限り、立法その他国政の上で、最大の尊重を必要とするという13条は、新しい時代に対応した人権を具体化、深化させていくことができる包括的規定でございまして、国民にとっても希望の星であり、頼もしい規定と言えます。
 また、憲法25条も、今後の国民生活の向上を憲法の上で担保する規定となっております。情報を自由に取得する権利としての知る権利も、明文規定のございます表現の自由の反対形相として根拠づけられております。こうした新しい人権規定を憲法に加える改正をいたしますとしても、これらの条項をなくしたり弱めたりするということは考えられないところでございます。
 基本的人権が人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であり、侵すことのできない永久の権利として信託されたものであることを明記いたしました97条は、近代憲法の人権規定に共通する性質を言い当てておりますけれども、どの国の人権規定も、憲法が制定されました当時の社会状況を反映していることはやむを得ないところであります。
 しかしながら、我が国の憲法規定と今日の憲法改正議論を踏まえて考えましても、これまで申しましたように、現在の憲法は大変先見性があり、時代先行性を有しておりまして、例えば、今環境権を実現するために憲法改正を行う必要があるというようなことではございませんで、むしろ具体的に法律の中でその権利の具体化をしていただきたい。憲法に加えるといたしましても、具体的権利を欠いておりますと、憲法への規定ぶりによりましては、かえって立法府や行政府の裁量を拡大することになりかねないことにも留意していただきたいと思います。
 特に御留意いただきたいことは、国民投票への付議に関してでございます。
 独占禁止法は、いわゆる抱き合わせ販売を不公正な取引方法の一つに掲げてこれを禁止しておりますところは御案内のとおりでございます。抱き合わせ販売によって、買い手は抱き合わせられた商品の購入を強制され、選択の自由が妨げられることになるからでございます。憲法に関しましても、このようなことに留意する必要があるのではないかと思っております。
 憲法に定めます平和主義は、我が国にとりましても国際社会にとりましても大変意義深い規定であると思っております。世論調査におきましても、九条の改正をすることに反対の意見が多いと承知しております。
 仮に幾つもの改正項目について国会で三分の二の多数が得られるということがあるといたしまして、そこに何らかの政治的妥協を伴うことがあることが想定されるところです。国会におかれましては、そうした妥協が必要な場面もあるかもしれません。しかしながら、国の基本法である憲法は、そのような政治的妥協によってゆがめられてはならないものだと思います。
 憲法改正には国民投票が必要であるというところでありますけれども、そうした観点から、例えばこれから環境権を追加するということと、これに真っ向から矛盾すると思います九条改正問題とを抱き合わせた形で、一括して国民投票に付すというようなことは避けていただきたいと思っております。これは国民の選択の自由が妨げられることになると考えるからであります。
 次に、例えば環境権についてどのような権利規定の措置が必要と考えているかについて申し上げたいと思います。
 72年6月、ストックホルムで国連人間環境会議が開かれまして、環境は人間の福祉と基本的人権の享受のために必要不可欠なものであると宣言されました。日本弁護士連合会は、その前の70年に、公害問題を環境問題としてとらえまして、公害の未然防止を目的に、人間環境を保全するための環境権を提唱しました。こうした環境に関する従来の法制度や考え方に対して、新しい問題提起をいたしました。その後30年を経て、私たちが良好な環境を享有する権利を有しているとの認識は広く国民に既に共有されており、争いのないところではないかと思います。
 人の生命、健康を保持し、あわせて人間らしい生活を営むことを求めるのは人として基本的な要求でありますけれども、憲法13条は個の尊重、人格権、幸福追求権をもってこれを認め、社会的な総則的規定でございます25条が環境権の社会権的側面を保障するものであるということも、例えば大阪空港訴訟判決等に示されているところであります。
 このように、環境権の憲法上の根拠というものは既にございます。むしろ、環境権として包摂される内容は大変広範かつ多様であり、その実現のための方策は、客体や課題によって特徴があること、抽象的権利規定としての憲法の性格を考えますと、良好な環境の保全をいたしますには、法律において権利の具体化、権利の行使方法、権利侵害の判定方法などの緻密化などの立法をお願いしたいところでございます。
 例えば環境基本法は、持続可能性を基本理念といたしまして、環境に関する具体的立法の基本的枠組みを示しておりますが、以下に述べる問題点を残していると考えております。
 第一に、環境基本法に個人の環境権が明記されていないわけでございます。そうした追加が必要であります。
 少し時間が足りませんのではしょらせていただきます。
 また、環境基本計画には、環境を、自然環境のみならず、歴史的、社会的、文化的なものととらえまして、景観の継承などを含めて、生産と生活を一体的にとらえていくという視点が盛り込まれておりますけれども、例えば、そのためには、今年制定されました景観法に、地域的、歴史的、文化的景観を享受する権利ということを明記していただくことが必要かと思います。
 第二に、環境保全におきます私人の役割、個人の役割を明らかにする具体的な権利といたしまして、差しどめの権利を明記していただきたいと思います。
 我が国は、産業優先の負の遺産ともいうべき激甚な公害を経験してまいりました。先般、水俣病に関する最高裁判決がございましたが、公式発見から50年近く経過しても過去の被害の清算がなされていないということにも驚くべきでございますが、因果関係や過失等の立証責任が被害者に課されているというこの現在の法律制度のもとでは、これらの立証が事実上非常に困難であることから、被害の拡大を容認してきたということを反省しなければなりません。
 こうしたことに対しまして、現在の基本法は、国民の責務として、環境への負荷低減への努力や公共自治体、国の施策への協力義務を述べておりますけれども、保全のための権利は書かれておりません。人の生命、健康に被害をもたらす場合だけでなく、生態系や環境の保全等につきましても、これらは社会的共有財産というべきでありますし、一たん破壊されますと取り返しがつかないものでありまして、まさに差しどめの権利を確立することがその保全のかぎであります。
 第三に、情報開示請求権を盛り込んでいただきたいと思います。
 今日、環境問題ほど透明性の確保と市民参加の必要性が指摘されている領域はないと思います。国民の情報へのアクセスを権利として保障することは、環境保全の政策決定、その実施における市民参加の基盤をなすものでございますが、現在の環境基本法では、国にその努力義務を課しているにすぎません。
 情報公開法による情報の開示請求権のみならず、環境基本法や個別法におきまして、国民や環境団体の情報開示請求の権利を盛り込んでいただきたいと思います。例えば、今、京都議定書の目標達成のための政策強化といたしまして、排出量の把握、報告、公表の制度化が焦点となっておるところでございますけれども、このように、知る権利につきましても、具体的権利規定を法律上拡充していくことが立法府の役割と思うところでございます。
 第四に、こうした差しどめや情報開示請求権につきましては、環境団体にその権利を付与する立法措置が急務と思います。
 消費者政策におきましては、不当な契約条項や不公正な広告につきまして、一定の要件の消費者団体に差しどめを求める訴訟上の権利を付与するための立法措置が、消費者契約法の制定以来懸案となっておりましたけれども、ようやく次の通常国会にも提出されるのではないかと期待しているところでございます。
 環境保全につきましても、その利益も破壊の影響も、広範な地域、人々に及び、個人的な対応や行政監視にも限界があります。そうした直接利害関係を持ちます住民や消費者の個別的な授権なくして、違法行為の差しどめや行政に対する積極的作為を求める訴訟を提起する権利、あるいは環境保全政策に対して意見を申し述べ、異議を申し立てる等の権利を法律上保障していくということは、これからの環境保全における実効性を確保していく上で不可欠と思います。
 このような権利は、欧米等諸外国では既に定着いたしまして、十全に機能し、大いなる成果を上げているところでございます。
 地球環境問題は、近時、新たな地球規模での安全保障問題として位置づけられております。ブッシュ政権が京都議定書から離脱を宣言いたしました直後に、我が国の衆参両院で批准に向けた決議をいただきました。これはその後の日本の批准、議定書の発効に大変重要な役割を果たしたと感謝申し上げております。
 温暖化の要因や対策につきましては、公害問題に共通する問題、国民生活、両面がございますけれども、きょうはその詳細は割愛させていただきます。
 何よりも、今日の憲法改正の最大の論点は憲法九条についてであると承知しております。現行憲法の解釈上も自衛のための武力行使は否定されておりませんので、侵略行為を意図しない限り改憲を必要としないのではないかと思います。国際協力のための憲法九条改正といいますところは、裏を返せば、自衛以上の武力を行使する、あるいは、侵略と隣り合わせあるいは区別がつかない武力行使をするための憲法改正ではないのかと考えるのが理論的かつ自然ではないかと思うのです。このような改正は慎重にお願いしたいと思います。
 環境権は、九条の改正により非常に大きな影響を受けます。戦争は最悪の環境破壊をもたらし、また、私たちの生活環境が、自然環境、人工的環境を問わず、戦争によって乱されるおそれは多大であるからであります。他の人権も同様でございまして、いずれにしましても、問題は九条にとどまらないわけでございます。
 このような九条問題と人権規定につきましての問題等を抱き合わせいたしまして、一括して改正案を策定し、国民投票に付すことはすべきでないと考えますということを重ねて申し上げまして、本日の私の意見陳述にかえたいと思います。(拍手)
○中山会長 次に、植松公述人、お願いいたします。
○植松治雄 公述人(社団法人日本医師会会長) このような機会を与えていただきましたこと、厚く御礼を申し上げたいと思います。
 私は、生命尊重の思想というものを中心に置きながらお話を申し上げたいと思います。
 終戦から今日に至るまで、我が国がたどった道のりは決して平たんとは言えず、明暗さまざまな出来事が起こったわけでございますけれども、人々は衣食に不足することなく、一見、至って平和な日常を暮らせております。これは、大局的に見れば、我が国の政府及び国民がこれまでおおむね進むべき道の選択を誤らなかったことの証左であろうというふうに考えております。第二次大戦以来、一度も戦争の惨禍に巻き込まれなかったということ、すなわち、かたくなに平和憲法を守り通してきたことによるということは、大方の皆様方の認めるところでございましょう。
 また一方では、戦争、武力行使に限らず、社会には人の生存を脅かすさまざまな要因が存在いたします。例えば、近年の自殺者数の著しい増加も、そのような深刻な社会問題の一つでございます。平成10年に突如として3万2000人台を記録し、その後も毎年3万人以上の方がみずから命を絶たれているという状況でありまして、極めて憂慮すべきでございます。
 交通事故に関しましても、死亡者数こそは減少し続けておりますけれども、事故発生の件数、負傷者数に関しましては、毎年増加しつつございます。
 また、医療の現場に目を転じましても、昨今、医療事故が深刻な社会問題となっておることは御承知のとおりでございます。医療事故に関しては、現在のところ、発生件数や死者数に関する正確な統計はございませんけれども、依然として医療事故がなくならない状況からは、まさに国民の生命が深刻な危機に直面していると認めざるを得ない側面もあるわけでございます。
 民主主義の鉄則でございますが、個人が自己の信念に基づいて何かを主張し、権利を行使する際には、当然そこには義務が付随し、また、それらの主張は、社会全体の秩序を乱さない限りという条件つきで最大限尊重されるべきであるということでございます。憲法13条を引き合いに出すまでもない原則でございます。
 一方、昨今、気になりますのは、個人の自由とか自己決定の名のもとに、みずからの身体を傷つけたり生命を極端に短くすること、あるいは生命の誕生に際して、優生的な発想による選別などの人工的な操作を次々と認めてしまう風潮があるということでございます。生命尊重、人命尊重の思想こそが、日本の、いや世界のすべての分野における基本的な価値基準であるべきだとかたく信じております。
 人の命と健康を預かる医師という立場からは、生命が何物にもかえがたく大切なものであるという当然の事柄を、すべての部面における価値基準、すなわち憲法の根底に流れる普遍的な思想として、いま一度強く訴えたいと思っております。
 医療と憲法との関係を論ずる際に必ず触れられるのが、25条の生存権との関係でございます。
 今や、我が国の医学、医療のレベルは、世界的にもトップクラスに位置することは間違いございません。そのような質の高い医療を、必要とあれば国民のだれもがひとしく受けることができるのは、言うまでもなく、我が国には世界に誇る国民皆保険制度が備わっているからでございます。そして、世界一の長寿国になった我が国の国民にとって、そのような良質な医療はもはや必要不可欠なものとなっております。したがいまして、国民皆保険の堅持は、国民の生存権を担保するためにも、決して後退することが許されない国の基本施策であると確信いたします。
 この点に関連して、昨今、非常に気がかりな問題が起こっております。すなわち、外国人住民、とりわけ在留資格を持たない外国籍の方々の医療受診につき、特に診療報酬の支払いをめぐる問題でございます。
 医師として地域医療を担当しておりますと、いろいろな事情を抱える患者さんが診察に来られます。そうした方の中には、いわゆる不法滞在と呼ばれる外国人の方もおられ、これらの方は医療保険に加入できませんので、高い診察料金を支払うこともできず、必要な医療を受けられないこともしばしばであります。また、けがや急病など、救急で担ぎ込まれた場合には、結局、医療機関が医療費を肩がわりするという実情もございます。生身の人間であれば、病気、けがは場所を選ばず発生いたします。不法滞在の問題は根本的な解決が必要かと思いますけれども、それはそれとして、現に我が国に居住している人々については、必要なときには安心して日本国民と同様の医療を受けられる環境を整えるべきではないでしょうか。
 本年1月15日、最高裁が、在留資格がないことを理由に一律に国民健康保険への加入を拒否することは違法であるとの判断を示したことは、御承知のとおりでございます。しかし、この判決が出された以後も、依然として国保加入を拒否された事例が報じられておりました。本年6月には、厚生労働省は、国民健康保険法施行規則の改正を行いまして、いわゆるオーバーステイの外国人の方々の国保加入を認めないことを明文化してしまいました。在留資格がないままに我が国に滞在していることは、それ自体早急に是正すべき問題ではありますが、現実に、そういう外国人の方々に憲法上の人権をどこまで保障するかという問題も、また実に解決困難な問題であります。しかし、そうであるからこそ、憲法調査会のような場において検討していただくことが適切であるように思っております。
 医療サービスへのアクセスは、国民の生存権の一部として重要な位置を占めることを前提といたしますと、その医療提供がもとで逆に国民の生命が危険にさらされるということは、絶対にあってはならないことでございます。もちろん、医療というものは、個々に条件や体質の異なる個人個人の疾病を対象とするわけで、治療の効果に不確実さが伴うことは当然でございますけれども、ここで言いますのは、それ以前の、医療従事者のミス、組織の欠陥に起因するいわゆる医療事故被害についてでございます。
 御承知のとおり、現在、医療界では、この医療事故被害を少しでもなくするように、一丸となって、あるいはそれぞれが競うように対策を打っているところでございます。残念ながら、現時点において、まだ医療提供の場面での危険が完全に取り払われたとは言えない状況が続いており、これは挙げて医療界の努力不足であると認めざるを得ません。
 その上で、あえてこの憲法調査会の場で申し上げておきたいことは、現実に医療従事者は、勤務時間などの労働環境が極めて過酷な状態であるということでございます。これはすなわち、医療現場の労働者の過酷な労働による過労のために国民の安全が犠牲になる可能性があることを意味しており、特に医療現場での人材の不足には早急な手だてを打つべき必要がございます。また、個々の医療機関も、医療の安全、患者の安全のための十分な投資ができるよう政策誘導していただきたいと考えております。また、それこそが国民の生存権を裏から支える結果になると考えております。
 いわゆるインフォームド・コンセントとか患者の自己決定といった問題がクローズアップされ、そしてそれが医療の現場で実践されるに従い、医療現場では、以前に比べて患者の人権が手厚く尊重されるようになってきたと実感しております。
 しかし一方で、ごく一部ではございましょうが、精神科患者の不当な身体拘束や過剰な投薬、あるいは入院をめぐるずさんな手続などの実態が問題として取り上げられることも現実でございます。特に精神科医療では、患者さん御自身の判断能力が欠如している場合などもございまして、問題が起きてもそのことが表面化しにくい性質がございますので、特に透明性を確保することによって、患者さんの人権が侵害されることのない制度をつくり上げていくことが必要であろうと考えております。
 また、新薬の治験や臨床研究の一部でも、被験者や患者の承諾、参加の意思を十分に確認しないまま実施されていた例が問題とされており、医療関係者、研究者の人権に対するモラルの向上が求められるところでございます。
 これに関連して、昨今、医療以外のさまざまな業種で現実に発生しております個人情報の流出事故も、医療界として、その予防に十分意を払わなくてはならない問題でございます。特に、医療に関する個人情報、すなわち、カルテに書かれている情報や、近時目覚ましい進歩を遂げております遺伝子解析技術を用いて得られた人の遺伝子情報などは、極めてプライバシー性の高い情報と言われております。そういたしますと、これらの情報を本人の了解なく他人の手に渡すということは、それだけで重大な人権侵害となっていると言ってよいかと思います。これらの情報の保護については、人権尊重という視点からも、国を挙げて対策を講ずる必要がございます。
 さらにつけ加えるならば、これらの個人情報を初め、人体から取り出された組織や臓器も、これは単なる情報や物ではなく、人体の一部として、特別の感情、すなわち礼意を持って取り扱われるべきものでなければなりません。これはモラルの問題とも言えましょうが、臓器売買やそれに類した行為は厳しく法律で罰すると同時に、人の身体に対する畏敬の念といった基本的な姿勢は、憲法であるか、あるいは生命基本理念構想、いろいろな法律、どのようなものがいいのかは別といたしまして、はっきりした宣言的な規定を設けるべきであると考えております。
 ところで、今申し上げましたような自己決定の尊重といった問題の延長線上には、冒頭に触れましたような生命の終末期の問題、すなわち、積極的な安楽死や医師による自殺幇助を適法なものとして認めるか否かという問題も浮かんでまいります。個人の自己決定を極端に推し進めていけば、そのような生命の終末のあり方を個人の自由として認める考え方もあるかもしれませんが、私どもといたしましては、これを無制限に認めてしまうことは反対でございます。
 すなわち、生命がまだ生きておられるうちは、これを生かそうとするべきであり、それが公の秩序、社会の秩序というものであろうと考えます。ただし、人間が生きるということは、人間らしく、よく生きるということを意味しますから、その限りにおいて、例えば延命のみを目的とした治療を差し控える、いわゆる尊厳死については、極めて厳格な条件を付した上で、そのような選択をする立場も容認すべきであろうと考えております。すなわち、国民生活にとって極めて重要な問題、その中でもさらに重要な人の命の問題については、すべてを個人の自由にゆだねるべきではなく、個々人の価値観、倫理観といったものをどの程度まで許容するか、すなわち、社会全体の意思としてはどの程度までなら合意し得るかという問題としてとらえるべきでございます。
 結論としては、現時点では、積極的な安楽死や医師による自殺幇助について、国民一般の納得はいまだ得られていないと考えております。
 ここで述べましたように、人命あるいは人体の尊厳に最高の価値を置くという考え方は、従来の常識的な憲法の枠組みの中ではあらわしにくい内容であるかもしれませんが、科学技術が高度に発達し、また人々の考え方もますます多様化している新しい時代の憲法のありようとしては、そのような事柄を明文規定としておくことも、また十分に意味のあることではないかと思っております。
 一方では、科学技術の進歩に合わせて、国民の側における人権教育も、憲法と深くかかわる問題として御検討いただきたいと思います。
 先ほど申し上げましたが、ヒトゲノムの解析計画の成功などを受けて、遺伝子解析等に関する技術は目覚ましい進歩を遂げ、現在では、さまざまな遺伝性疾患と特定の遺伝子欠損との関係、あるいは特定の遺伝子型を持つ人に有効な医薬品の開発などが取り組まれておるところでございます。このような研究開発また治療には遺伝子解析に基づく個々の患者に関する個人情報を利用する場合が多く、当然、それらの情報の管理には細心の注意を払わなくてはなりません。
 また、社会全体に目を向けてみると、そのような遺伝子解析に基づいて個人の体質や遺伝性疾患の有無に関して得られた情報は、結婚、雇用等に際しての差別、人の優劣の判断に用いられることのないよう、国民各層に対する人権教育が必要かと思います。人類に幸福をもたらすはずの高度な科学技術が新たな差別を生み出すことになっては本末転倒でございます。結局、差別とは、得られた情報を用いる人間のモラルの問題であり、これを正すには、法規制もある程度有効ではありましょうが、究極的には教育によって解決するしかございません。
 この人権教育の根底には、人は生まれながらにしてそれぞれ異なった部分、多様性を持っており、その違いをお互いに認め合って生きていかなければならないという考えを徹底することが肝要でございます。今後ますます高度な科学技術が進歩、普及していくことを考えれば、このような人権教育は初等教育から段階的に継続していくことが重要だと考えております。
 最後に、人の生命と健康を守る医師の立場から、武力行使に対しては断固反対の立場をとることを一言申し上げておきたいと思います。
 武力によってみずからと異なる立場の者を抑え込むことが卑劣な行為であることは言うまでもございませんが、これに対してさらなる武力で応じることも、憎しみを増すばかりで何の解決にもなりません。今回のイラク戦争に関して、日本医師会では、昨年の開戦直後の3月30日に、日本医師会代議員会の名において、イラク戦争の即時終結を求める決議を、また、その5日前の3月25日には、日本歯科医師会、日本薬剤師会、日本看護協会との連名で、イラク戦争の即時終結を求める声明を発表いたしております。戦争反対の考え方は、本日申し上げてまいりました人命尊重の立場とも整合いたしますし、また、他者との違いを認め合って差別のない社会を目指す考え方は、究極的には世界平和の根本原理であると確信いたしております。
 医療機関は、いわゆる周辺事態が発生した場合に医療協力を要請されるものと理解いたしますが、これが今後拡大解釈され、医療従事者として、武力行使に加担することだけは断固反対の姿勢を表明させていただきます。
 ここまで、医療者の立場から、憲法にまつわる幾つかの問題について発言させていただきました。
 私は憲法解釈の専門家ではございませんので、今まで申しましたことをどのように憲法の体系に組み込んでいくかという点に関しては、憲法調査会の先生方を初め、法律学者の方々にお任せいたします。
 ただ、あえて私見を申し述べるとすれば、まずは、現行の憲法の枠内で可能な限りの公正な解釈を目指すべきであり、その上で、現行憲法の解釈だけでは社会の実態に適合しない事態が明らかになったり、そのような事態が予測される場合には、憲法の部分的な修正も積極的に考えるというのが筋であろうと考えております。
 先ほども触れましたように、高度な科学技術が発達し、人々の価値観も多様化している今日の社会では、あるいは、新しい考え方や新しい物事に対応できる表現を取り入れた新しい憲法をつくることも検討するべきときにあるのかもしれません。
 例えば、本日の意見陳述の中で終始申し上げてまいりました、生命、人体の尊厳という概念は、これからの科学技術が高度に進歩した時代において、極めて重要な言葉になるだろうと考えております。フランスでは、人体の尊厳が人権の一つとして宣言され、これに基づいて民法典に新たな条文が加わったと聞いております。またドイツでは、基本法の中に、人間の尊厳、身体を害されない権利といった規定が存在するとのことでございます。国の基本原理として、人の肉体そのものの尊厳というものを我が国の憲法の中に書き込むことも検討されてはいかがかと思っております。
 以上、簡単でございますけれども、意見を述べさせていただきました。(拍手)
○中山会長 次に、暉峻公述人、お願いいたします。
○暉峻淑子 公述人(埼玉大学名誉教授) 暉峻でございます。
 きょうは、お招きいただきまして、ありがとうございました。
 実は、ここにお招きいただいたときに、私の研究仲間の人たちにもそのことを言ったんですけれども、その人たちは、やめなさいと。世間の評判によると、甚だふまじめで、議員の人たちが私語をしょっちゅうしたり、出たり入ったり、欠席も多くて、どうもまじめに聞いてくださらないという評判だ、そんなところに行っても仕方がないから、自分は頼まれたんだけれども断った、何でそんなところへ行くんですかと言われたんですけれども、私は、たとえそうであっても、私の意見を聞いてくださる方があるということで、きょうは喜んで伺いました。でも、きょうは、その評判に比べると、皆様とてもまじめに、欠席はありますけれども、聞いてくださっているので、とてもありがたいことだと思っています。
 私は、次の二点に絞って意見を述べたいと思っております。
 私の専門分野は国民生活に関する調査研究ですので、まず第一には、憲法9条が国民生活とどのようなかかわりを持っているか、9条がなし崩しになることによって国民生活にどのような変化が起こりつつあるかということについてお話しします。
 第二点は、私が13年間かかわっている、紛争下での難民、孤児、病人、貧困者を救援しているNGOの活動の中で、国際貢献について私がどのように考え続けているかということについてお話ししたいと思っています。
 まず第一点について言えば、現在私たちが十分とは言えないにしても享受している人権も環境も福祉も民主主義も言論の自由も、平和憲法がなければあり得なかったということです。
 憲法10条から40条までの31カ条にわたる人権規定。憲法11条の基本的人権、19条の思想、良心の自由、24条の家庭生活における個人の尊厳と両性の平等、25条の国民の生存権など、私たちの日々の暮らしを支えている人権規定は、すべて九条の規範と表裏一体となっているものだと思います。
 こう言うと、すぐに、それは一国平和主義だという声が聞こえてきそうですが、そのような御心配は要りません。国民の人権と福祉のレベルが高い国ほど、例えば北欧の国々の国際援助の国内総生産に占める割合は、日本よりもはるかに高く、公的な資料で、日本はGDP比0.23、デンマーク1.03、スウェーデン、ノルウェーともに0.81という状況で、NGOの活動も、私は国際的な舞台でNGOの人たちとよく会いますけれども、本当に質が高いです。北欧の政治家の国際紛争調停能力、これは政治家でも官僚でもそうですけれども、外交力の能力は国際的に高く評価されて、また信頼もされております。ブルントラントさんとかパルメさんとか、皆さん方もよく御存じだと思います。そういう能力は日本の比ではないでしょう。
 私はむしろ、自分の国で平和と人権を尊重している国こそが、外国への本当の意味の人道援助ができる国であると思っています。
 現在の日本社会のように、社会格差と差別思想がだんだん広がってきて、いわゆる勝ち組、負け組の世界に分裂し、国の政策も、税制や補助金やその他でそれを推し進める傾向にあります。労働の世界では、低賃金で不安定な労働。社会保険もつかないし社内研修による能力向上の機会も与えられないフリーターと正規社員との格差が広がっています。このフリーターが現在もう500万人を超えているということは御存じですよね。政府の審議会や協議会の座長を務める財界のある方は、それを鉛筆のしんと周りの木に例えて、しんはエリート社員で大切にされるが、木はパートや使い捨てのフリーターだというふうに公に言っておられます。
 政府の役割は、新自由主義の市場が生んだそれらの格差に自立援助をして、非人間的な格差や差別を是正していくことにあると思うのですけれども、失業者、不安定労働者、ホームレス、それから、もう3万4000に達するという自殺者の数、こういう傾向が固定化していっていることに対しても大変冷淡であると私は考えております。
 生活の土台がこういうふうに破壊されていくことが実は経済の不況からの脱出を阻んでいるのですけれども、持続できない目先の利益を求めて、大きな損という対応しかとれていないのが日本の現状であると考えております。経済の長期的な発展も国際貢献も、すべての基礎は人権の尊重に由来しているのに、国内の人権意識が衰えていくのは、人権に逆行する軍事化路線が強くなっていっているからではないでしょうか。
 こういうことを言いますと、よく若い方が、もう戦前の人の話は結構というふうに言われるのですけれども、例えばマラリアにしても何にしても、一遍病気になった人は、その病気が再発するときには、あっ、また始まったとすごく敏感にわかるものです。私は戦前の経験も持っていますので、パターンこそ違いますけれども、やはり、あっ、また始まりつつあるなという感じを持っています。
 以上述べたことだけでなくて、子供の人間としての自然で豊かな人格全体の発達を助ける教育の世界にまで短期的な市場の競争原理が持ち込まれ、子供の生活をゆとりのない苦しいものにしているだけでなく、バランスのとれた人格の円満な発達を妨げています。
 今、子供たちも若者たちも人間関係をつくることがすごく苦手ですね。処理能力はあるんです。特にエリートと言われる人たちは、ばりばりと処理はします。しかし、考える力や創造性に欠ける子供が多いことは国際的にも知られているところです。これは、PISAという、15歳の子供の国際比較のテストがありました。このときに、日本の子供は計算力もあるし法則も覚えているんだけれども、考える力、創造性というものがないということを、きちんと分析の結果、言われています。
 それなのに、今は、学校間競争をあおったり、一斉テストをしてその結果を公表したりしようということが本当の子供の能力を開花させることではないのに、これも、もう目先の何か結果を求めるわけですね。この競争の息苦しさへの批判を封じ込めるように、管理主義的な道徳とか愛国心が上から押しつけられています。
 私はもう40年も教師をしておりますので、大学に入ってくる前の学校教育も常に見学をしたり教師の意見を聞いたり、親との集まりに出席しているわけですけれども、序列づけ、競争によって人間という一つの人格を順番づけにすると、子供は攻撃性を非常に強く持つようになります。
 それから、おまえは成績が悪いと言われた子、例えば習熟度別学級の一番下のクラスに入れられた子、こういう子は早くから挫折感を持って、ああ、どうせ自分は頭が悪いんだ、もう何をしてもどうせだめなんだと、それでいよいよだめになっていくんですね。世界の教育者の会議で、子供のときにおまえはだめだと思わされた子供はもう一生取り返せないというのは、世界の教育者の認識です。まれに何かの体験で自信を取り戻すということはないとは言えないんですけれども、一般的には、だめ人間をつくっていってしまうんですね。
 それなのに、今は、学校間競争があったり、あからさまに、例えばこれも文部省の教育課程審議会の会長もされたと思うんですけれども、ある文学者の有名な方が、できぬ者はできぬままで結構、戦後50年、落ちこぼれの底辺を上げることばかりに注いできた努力を、できる者を限りなく伸ばすことに振り向ける、100人に1人でいい、やがて彼らが国を引っ張っていきます、限りなくできない非才、無才にはせめて実直な精神だけを養っておいてもらえばいいんですというようなことを公言されておりますね。私は、教育者として、こういう社会になったらこれはもうおしまいだなというふうに思っています。
 それと歩調を合わせるように、批判を逆に封じ込めて、愛国心の強制や、東京都の教育に見られるような上からの強権的な統制、これは民主主義や人権に反するだけでなく、何か軍国主義的な歩調を感じさせて、9条を邪魔者扱いにしている流れと改憲を声高に言われる方の思想と、どこかでつながっているんじゃないのかしらと私は思って見ております。
 このようなことを述べるのは、実は、自民党の憲法改正プロジェクトチームの論点整理に見られますように、お上が決めて国民を従わせるという、何かそういう底流が非常に強く流れている、つまり、反国民主権の考えが流れているように思えるからです。もっとも、これは論点整理でありまして、自民党が結果的にそうするとおっしゃっているわけではないのですけれども、私は、率直に言わせていただければ、この論点整理を読んだとき、ええ、こういう考えの人たちが憲法改正、9条見直しを唱えているのという、本当に大きな驚きを感じました。これは私だけではない、広範囲な人たちが言っていることです。
 私は、文学も音楽も、あるいは家計簿を研究する生活研究も教育者の集まりにも、非常に幅広くその中に参加している人間ですけれども、例えば一例を挙げますと、「見直すべき規定」として、「婚姻・家族における両性平等の規定」、憲法24条ですが、これは「家族や共同体の価値を重視する観点から見直すべきである。」とはっきり書かれております。両性の平等を見直すべきであるなんというのは、ちょっと、本気かなと思うくらいです。
 日本は、既に国連の女子差別撤廃条約を1985年に批准して、国内法もこれに適合するように改めていますし、1999年、男女共同参画社会基本法によって、今、性差というものが歴史的、社会的にどんなふうにつくり上げられてきたのかわからない、これをきちんと研究しましょうという見直しですね、これも合意されています。
 日本で憲法を改正して両性の平等をこれから見直しましょうなんということは、性差別のない社会、性差別だけでなくて、人種差別でもあらゆる差別がない方がいいということを願っている私たちにとっても、それから、国際人権法の最も重要な柱として、国際人権法の中でも根本的な地位を占めている女性差別撤廃、今度のような両性の平等を見直すなんということを言われると、国際人権法と根本的な衝突をすることになります。今や人権規定はグローバルなものとして国際的に認められていますので、このような両性の平等を見直すという提案そのものがもう時代錯誤的なのです。この提案は、最初、読売新聞が行ったものであったと私は記憶しております。
 皆様方、日常の御生活の中でも、それぞれが愛情と信頼を持って家族をつくるからこそ、家族でしょう。ただ共同体という、家族は共同体だというその形だけを保存しておくために、例えば、今ドメスティック・バイオレンスという家庭内暴力の話なども出ていますけれども、そういうことは何か隠しておくというか、あるいは昔の家制度みたいに、ともかく女は、まあ女はとここには書いてありませんけれども、一方が一方に文句なく従う。
 でも、時代を見てください。昔、妻は所得もなかったから、そうするより仕方がなかったかもしれません。あるいは、天皇制を頂点とする家制度というのがあったので、それにがんじがらめに縛られていた。今度、お札に樋口一葉さんが出ていますけれども、皆さん、昔のことを知りたかったら、樋口一葉の小説の一つや二つは読んでください。その当時のことが生々しく書かれています。
 私は、やはり家族が大事、家族がいいというのは、そこにそれぞれの自立した人間、人権を保障された人間がいて、男も女も、その人たちが自分たちで本当に愛情と信頼を持っていい家族をつくっていきたいと思うからこそ家族なんですね。何かこの論点整理を見ていると、こんなことまで言わなきゃいけないのかという感じです。
 この両性の平等の見直しと並んで提案されているのが、「公共の福祉」を「公共の利益」と言いかえるものです。これもたしか読売に出ていたような気がしますけれども。
 公共の福祉というのは実は個人の福祉を増進させるものであって、両者は対立関係にあるものではありません。これは福祉の歴史をどうぞ、もう時間がありませんのでここでは言えませんけれども、ちょっと見てくださればわかるものです。何が公共の福祉であるかは、一般の市民が参加して、討議、話し合いによって決めていくものです。主導権は市民にあります。福祉は人権のもう一つの表現であり、たとえ利益がなくても、損になっても、例えば環境問題のように、守られるべきものなのです。公共の利益と言われると、短期的な視点から判断されるだけでなく、まあ利益というのは常に短期的になりがちなんですけれども、だれにとっての利益か、だれが何を公共の利益と決めるのか。権力に都合のいい判断で公共になって、強制立ち退きが命じられたり、軍事基地がつくられたり、幾らでも拡大解釈されることは、沖縄や成田の例が既に示していると思います。
 これまでに挙げた例からもわかるように、自民党の論点整理が示しているのは、権力が決め、国民が従うという、国民主権の否定であるような気がします。
 戦後、平和とともに国民が営々と築き上げてきた人権と民主主義は一体どうなっているの。24条の見直しなど絶対に許せないというのが、つい先週、私の地域で集まった、ある詩人をしのぶ会での男女を問わない発言でした。
 自民党の中には、かつて婦人少年局長を務められて、女子差別撤廃の批准に努力された方もいらっしゃいますし、世界女性会議で女子差別撤廃を推進する発言をされた方もあります。世界女性会議のナイロビ会議に日本政府代表としてその女性の方は出席され、その後、法務大臣にもなられています。こういう方たちがこの論点整理に対してどんなお考えをお持ちなのか。これも私は、どうも不思議な気がしてなりません。
 このような人権意識の後退は、改憲、つまり九条見直しの思想と深くつながっています。今、日本が世界有数の軍事力を持ち、しかもアメリカの軍事力と一体化されつつあるために、それを押しとどめるだけの規範力を日本の9条は発揮できていません。しかし、国民は、軍事的な価値が社会の最高の価値だとは認めておらず、平和、人権、民主主義の持つ基本的な価値を軍事的な価値よりも高度な価値として認めています。それは、9条が持つ価値観が国民の中にまだ根を張って残り続けているからでしょう。
 九条が空洞化しているといっても、もし日本が9条を持っていなかったら、日本は好戦的なアイデンティティーを持つ強大な軍事国家とみなされて、反省のない国として、韓国を初めとする近隣諸国の日本に対する憎しみは解消できず、日米の産軍複合企業は武器の売買で利益を上げ、マスメディアは相変わらず不十分にしか批判的な意見を持ち得ず、独立性も持てないままになっただろうというのは、日本の憲法を研究しているアメリカの憲法学者の本に書いてあることです。
 9条は空洞化したと言うけれども、本当に空洞化していたら、改憲論者はこんなに躍起になって憲法改正を叫んだでしょうか。9条は、アメリカと一緒にどこでも戦争できるということを阻止しているからこそ邪魔者扱いにされているのだと思います。
 国民の生活の福祉を支える人権文化は、武力による軍事文化とは相入れません。
 軍事文化は情報を秘匿しますが、民主主義は、公の持つ情報を公開させて、国民自身が判断し、自己決定権を持つことを国民主権だと考えています。軍事文化は、上からの命令を批判することを許さず、すべての決定権を上が握って、下に命令します。しかし、民主主義の人権文化は、個人の尊厳が認められ、相互に自由な討議や話し合いによって公共の場や共通規則をつくっていくという過程を大事にしています。個人が政治にも社会にも参加することを促進しています。軍事文化は、武力で勝つことによって、あるいは人を殺すことによって物事を解決しますが、人権文化は暴力を否定し、人の命を大切にする福祉社会をつくろうとしています。九条はその結実なのです。
 民主主義は、平等に向けて絶えず努力して、差別を除く人間社会をつくろうとしています。力によって勝ち負けを決め、力によって物事を解決しようとする軍事文化と、競争の勝者が優位に立って支配権を握る弱肉強食の社会には、どこか共通性があるのじゃないでしょうか。
 自分の子供が殺されるのは嫌、だけれども、イラクの子が殺されるのはやむを得ない。10万人の殺されたイラク人の7割が女性と子供です。いまだにイラク武力攻撃を支持する人が改憲を唱えているのを見ると、何か心配です。
 自分が地雷で足を失うのは嫌、だけれども、地雷も武器の輸出もいい。国民には厳しく銃の取引を規制しているのに、何で大企業なら武器の商売をしてもいいのでしょうか。私の経験でも、地雷や銃が発見されるたびに、救援の現場では、国際的なNGOの人たちが、一体この武器はどこの国で生産されたのかといつも問題にし、記録していました。
 アメリカが空爆を始めたときに、アメリカのジャーナリストたちはその説明をアメリカの当局者から聞いたわけですが、そのときに、ただ一人、初老の女性のヘレン・トーマスさんという女性記者が次のように質問しました。説明は伺いました、でも、なぜ罪もない子供が殺されなければならないのですかと。政府はだれもそれに答えられなかったと聞いています。この問いこそ、本当に根本的な人間としての問いであると私は思っています。
 自衛隊にも、御苦労さまという言葉で言っていますけれども、自衛隊は死んでもいいんだ、私は死にたくない、だけれども、自衛隊の人は死傷者が出てもやむを得ない。これも差別意識ではないでしょうか。
 私は、もうこれで時間がないので、あとは御質問のときにお答えしたいと思いますが、このような差別というものは、戦争、武力というものと必ずついて回るものです。それゆえに、私は、9条の改定にも反対ですし、こういう差別意識を持たれる武力というものがいずれシビリアンコントロールを抜け出して大きくなっていくのではないかという心配も非常に大きく持っております。
 以上で私の話を終わります。(拍手)
○中山会長 以上で公述人からの御意見の開陳は終わりました。
……中略……
○佐々木(憲)委員 日本共産党の佐々木憲昭でございます。公述人の皆さん、本当に御苦労さまでございます。
 まず、暉峻公述人にお聞きをしたいと思います。
 イラク戦争の問題ですけれども、大量破壊兵器が存在をしていなかったということが既に明らかになりまして、この戦争が大義がなかったということでありますが、アメリカは、しかし、それにもかかわらず、その点について反省するどころか、今、ファルージャに対して大規模な無差別攻撃を行っているわけであります。無法な行為だということで大変な国際的な批判も起こっているわけですけれども、ブッシュ大統領は、イラクに自由と民主主義をもたらした、こういうふうにおっしゃっているわけです。あるいは、小泉総理は、自衛隊派兵が人道支援のためだというふうに言っておられます。90年代のNATO軍による旧ユーゴへの空爆も、口実は人道的介入ということだったと思います。
 イラクの一般市民を殺りくしてもたらされるというこの自由とか民主主義、あるいは人道支援とは一体何なのかと思わざるを得ないわけで、外国軍の武力によって自由と民主主義というものは果たしてもたらされるものなのかどうか、公述人はこの点についてどのようにお考えか、まずお伺いをしたいと思います。
○暉峻公述人 私は、武力によってはもたらされないと思います。最初のうちは、ピンポイントで、技術が発達しているから無辜の市民は殺さないなんということを言われていましたけれども、私たちは、イラク戦争から、もっと現実から学ぶべきなんですね。日本の憲法は現実から離れていると言うなら、イラクの戦争の現実から私たちは何を学ぶかということがとても大事だと思っています。
 それで、もともと、武器を持って出ていくということと、人道援助というのが、あるいは民主主義というものが、一緒になるということはあり得ないんですね。
 例えば、今日本から出ていっている自衛隊の人は、例の10月6日だったと思いますが、ニューヨーク・タイムズがすっぱ抜いているように、自分たちの陣営の中にじいっといて、全然人道支援なんというのをやっていないのではないかということをトップに書かれています。日本のジャーナリストがそこにいないのが残念で、私たちはニューヨーク・タイムズで知るということなんですけれども、それだったら、もうNGOと同じなんですね。危ないなら、基地の中にいるのなら、NGOも危ないときはいつもさっと引きますし、どこに一体違いがあるか。
 つまり、武力なんか持っていって、それでもし、そこを無理して何かやるというんだったら、結局日本の自衛隊もだれかを殺さなければならないということがあると思うんですね。それは、もし嫌なら結局陣地にじっとしている、だったらもうNGOと全く同じことですね。だから、私は、武力による人道援助というのはできない、これはもう13年の私の経験ではっきり言えます。
 国境なき医師団も同じことを、国境なき医師団は80カ国に派遣している、ノーベル賞もとった団体ですけれども、武力、つまり軍隊と一緒に人道支援というのは絶対にできない、自分たちは絶対に一緒にやらないということを言っています。それはもう目的が違います。もし、自衛隊なら安全だから自衛隊が人道支援に行くというんだったら、自衛隊もある場合には人を殺さなければなりません。つまり襲われた場合ですね。襲われた場合も殺さないというのならNGOと全く同じことです。だから、私はどこに違いがあるのか。つまり、軍隊を出すときには、表向きは人道支援と言っていても、その背後には何かどろどろしたほかの理由というのがくっついているんじゃないか。これは国境なき医師団もはっきりとそのことを言っています。
 ですから、お尋ねのことに対しては、イラクの場合、10万人もあれだけの死傷者を出して、それでどこに大義があるのか。それから、民主主義というものは外から武力で強制できるようなものじゃないんですね。コソボだって、国連のUNMIKも全く何も成果を上げていません。暫定政権も何の力も持っていません。失業率も30%が50何%に上がって、人身売買だの売春宿だの、本当に失業者があふれていて、一体何の武力攻撃の意味があったのかということは、あらゆる国のNGOがそれは知っているし、報告もしています。
 だから、私は、人道的な問題と軍隊というのは合わないというふうに思っています。
○佐々木(憲)委員 ありがとうございました。
 先ほどの暉峻公述人の後半部分、二点あったと思うのですが、9条と国際貢献についてどう考えるかという、その論点についてお触れにならなかったので、時間がちょっと全体に短いものですから、言いたかったことを簡潔におっしゃってください。
○暉峻公述人 私は、9条のねらいというのはやはり集団的自衛権にあると思うんですけれども、それが人道支援とか国際的な人権を高めるということには決してならないと思っているんですね。これは私のNGOの活動の中からはっきり言えることで、だから、九条はもう絶対に堅持すべきだと思います。
 9条によってどれだけ日本が国際的に、私たちが救援に行っても、あなたたちの国には野心がないと。軍隊が出てくるとその背後にはどろどろした野心が、表向きはいつもきれいなことを言うけれども、あるんだけれども、日本の救援は本当の人道的な救援だから、私たちは安心してあなたたちの救援を受け入れて感謝していますというふうに言われますね。
 だから、軍隊と人道支援というのは、私はもう全然合わない、これは別だと思います。
○佐々木(憲)委員 植松公述人にお伺いします。
 今政府が進めようとしている改革と憲法の関係なんですが、三位一体の改革ということで、自治体に義務教育や社会保障関係費など国庫補助金とか負担金を削減する、こういう案をまとめさせたわけでありますが、混合診療の解禁問題も先ほどお話がありました。
 公述人は、9月14日付で三位一体改革に関する抗議文というものを出されているということをお伺いしましたが、この中で、「憲法25条に基づいて国民の健康・生命を守るという国の責任を放棄する重大な問題である」というふうにおっしゃっておられますけれども、この点について、考え方を簡潔にお願いしたいと思います。
○植松公述人 生存権の問題とも関係いたしますけれども、日本におきましての公衆衛生、地域医療、いろいろな面の問題が今厚生労働省関係でやられておりまして、その多くのものが今度の三位一体というところで地方への移譲ということになっておるわけでございます。
 このこと自体、その事業がこれからも完全に行われるということの保障があるならばこれはさほどの問題はないわけでございますけれども、かつて、がん検診事業が地方への一般財源ということで移譲されましたときに、各府県を見ましたときに、がん検診事業が抑えられたというところも少なからずあったということを見ますと、現在におきましての地方自治体というものの力といいましょうか、考え方の中では、国民の健康を守るという中で、まだ少し私どもは不安がある、これはまだ当分国の責任でおやりいただいた方が安心ではないかということでございます。
 将来にわたってだめという話ではございませんで、現在はそういうことで、いましばらくこれは続けていくべきだ、放棄するということは国としてはいかがなものかということでの抗議文を差し上げたということでございます。
○佐々木(憲)委員 ありがとうございます。
 もう一点お伺いしますけれども、この間、日歯連事件など、公益法人と政治団体の活動のあり方というのが問題になってまいりまして、国会でも議論が行われました。実は、厚生労働省もそれは峻別をすべきだということで、通達を出しまして調査をしまして、けさ方、私のところにその一部の中間的な集計を持ってきていただいたんですが、例えば、パンフレットで、公益法人が徴収する費用の中に政治団体の会費を記載していた事例が41件あって、是正はまだ16件にすぎなかったり、あるいは公益法人と政治団体の会費の振り込み先を公益法人名義の同一の銀行口座としていたとか、これは96件ありまして、是正が25件ですとか、これは医師会、歯科医師会、看護協会に関連する政治団体と公益法人との峻別にかかわる調査なんですけれども。
 そこで、私は、構成員の思想、信条の自由という問題があると思うので、どの団体に所属するかはやはり本人の選択の自由というものが保障されなければならないし、どこに献金をするか、それがどのように使われるかということもやはりその構成員の判断ということが大切だと思いますので、この点について、過去いろいろ問題が指摘されてまいりましたので、その点についての現在の認識、それからあるべき改善の方向、これについてお話をいただきたいと思います。
○植松公述人 おっしゃるとおりでございまして、今度の厚生省の調査がいつの時点かということははっきりいたしませんが、そういう調査がなされたということは私も認識しております。
 現在、日本医師会並びに日本医師連盟の関係で申しますと、日本医師連盟の入会は、その入会の届けをもってしております。本人の御意思で入っていただいておるということでございますので、現在、組織率は大体70%ぐらいでございます。そういうことでは、決して強制という形はございません。
 そして、昔も強制はなかったわけでございますけれども、今まで、かつて会費の納入その他につきましておっしゃるような不備な点があったということは否定はいたしません。けれども、私どももそれは十分指導をいたしながら、現在はそういうことは私は行われていないのではないか、これは手続上の問題で、入れ込むということじゃなしに、便利さでやっておったのかなと思いますが、現在は自由加入ということでございますので、組織率も申し上げたようなことでございますので、少なくとも、日本医師会といたしましては、十分にそのあたりには対応しておるというふうに私は申し上げたいと思います。
○佐々木(憲)委員 ありがとうございます。
 浅岡公述人にお伺いしますけれども、先ほど配付をされましたレジュメの中で、多分時間がなくて触れられなかったのでしょうが、憲法上に国民の義務・責任規定を追加すべきではないというふうな指摘をされていたと思うんですが、憲法というのは人権を保障し、一方で国家権力の行使を制限するという授権規範である、これは近代立憲主義の基本だというふうに思います。この点、国民の義務・責任規定を盛り込むということはこの近代立憲思想を後退させるものではないかと思うのですが、浅岡公述人はどのようにお考えか、この点についてお話をいただきたいと思います。
○浅岡公述人 私も、ただいま御指摘いただきましたように考えております。
 国民の権利を侵害しない範囲で、人権相互の調整や福祉の増進というものがあるわけでありますし、それも、憲法の本来の姿といたしまして、国家、国との関係で定められるというものであります。憲法99条は、国民を名あて人にはしておりません。これがこの憲法の基本を示しているというふうに思います。
 そこに加えまして、憲法上、国民の義務あるいは責任についての言葉を、現在の納税、教育、勤労の三つの項目を超えまして加えるというふうにいたしましたときに、これは極めて慎重な対応が必要ではないか。国民に倫理的指針を与える、こういうことを望まれるということだろうと思うのですけれども、それには大変慎重な姿勢が必要であろうかと思います。
 このことは、さきのイラクの問題で自己責任という言葉が非常に強く出てまいりましたり、あるいは、消費者保護の関係等ではまさに自己責任というような言葉が使われましたり、この責任というような言葉が何か緩和されたような形で、あいまいな形で非常に言葉が広がってきつつあるというようなことも含めまして、ここは極めて慎重な対応をお願いしたいと思っております。
○佐々木(憲)委員 ありがとうございました。終わります。

Share (facebook)

このページの先頭にもどる