奮戦記
【07.08.06】日本共産党の元議長・宮本顕治さんの党葬に参列しました
今日は、故宮本顕治元共産党議長の党葬が、午後2時から、東京・南青山の青山葬儀所でしめやかにおこなわれ、私も参列しました。
葬儀委員長の志位和夫委員長はあいさつで「日本共産党の発展の基礎を作り、日本と世界の平和と社会進歩に貢献した偉大な先達の生涯に心からの感謝と敬意をささげる」と故人をしのびました。
また、不破哲三前議長は弔辞で「どんな困難な時期にも不屈な意志と理性的対応を貫く。宮本さんが生涯を通じて残したこの教訓を固く胸に刻む」と述べました。
党葬には河野洋平衆院議長のほか、中川秀直自民党幹事長、鳩山由紀夫民主党幹事長、坂口力公明党副代表など約1200人が参列しました。
宮本顕治さんは、1908年(明治41年)山口県熊毛郡光井村(現在の光市)に生まれました。
愛媛県の松山高校を経て東京大学経済学部に入学し、29年20歳のとき、雑誌『改造』の懸賞論文に応募した文芸評論「『敗北』の文学――芥川龍之介氏の文学について」が一等に入賞しました。
1931年5月に日本共産党に入党、1933年に24歳の若さで党の中央委員になりました。同年12月、党に潜入していたスパイの手引きによって特高警察に検挙されました。
特高警察は日本共産党の名誉を失墜させるため、さまざまな事件を仕立て上げ、デマ宣伝を繰り広げました。
しかし、宮本氏は、獄中という困難な条件下で、日本共産党の名誉を将来にわたり守り抜くために全力をあげました。
法廷では事実を解き明かして、デマ宣伝を打ち破りました。戦時下の暗黒裁判は、宮本氏にたいし、治安維持法違反を主とした無期懲役の判決を下しましたが、戦後、この判決は取り消されました。
宮本氏は戦後すぐ党再建活動に参加し、日本共産党を困難な状況に陥れたいわゆる「五〇年問題」では、その解決の先頭に立ちました。
これはソ連のスターリンが革命直後の中国共産党の毛沢東指導部と組んで中国方式の武装闘争路線を日本共産党におしつけようとして企てた干渉作戦でした。
この干渉のなかで党は分裂し、分裂した一方がスターリンの直接指導のもと北京に拠点をおいて、軍事方針とよばれる極左冒険主義の方針を日本に持ち込みました。彼らが持ち込んだ武装闘争方針に真っ向から反対するたたかいの先頭に、宮本氏が立ちました。
党はこのたたかいを通して統一を回復、党綱領と自主独立の確固とした路線を確立したのです。
60年代には、ソ連共産党と中国共産党の毛沢東派から、それぞれ日本共産党を自分たちの支配下におこうとする覇権主義的干渉を受けました。これにたいし、日本共産党は、宮本氏を先頭に大論争をおこなって、これらの干渉をはねのけました。
宮本氏は、69歳のときに、参議院議員に初当選。以来、1989年まで2期12年務め、国会の場でも日本の民主的改革をめざすたたかいの先頭に立ちました。
日本共産党の偉大な先輩である宮本顕治さんの遺志を受け継いで、私たちも力の限り頑張る決意を固めました。
★!